「無理だよ、リサ」
フィリップが困ったような顔をしていた。
いつものベースを抱えている。
場所はどこなのか、よく分からなかった。
ライブハウスのようにも見えるし、シアトルのシステムセンターのようにも見える。
壁にはステージ照明が並んでいる。
そのすぐ隣には、大型ディスプレイがある。
「何が無理なの?」
「これ」
フィリップが紙を持ち上げた。
「言ってることが抽象的すぎる」
「雰囲気で分かるでしょ」
「分からないよ」
「夜の街を走ってる感じで」
「それだけじゃ曲にならない」
「じゃあ、そこを考えて」
「だから、それが――」
「来週まで」
理沙は言った。
フィリップが黙る。
「来週?」
「うん」
「無理だって」
「問答無用」
「リサ」
「来週までに作って」
フィリップがうつむいた。
空気が重くなる。
理沙は腕を組んだ。
少し言いすぎただろうか。
そう思ったところで、フィリップがゆっくり顔を上げた。
顔が違っていた。
ダグラスだった。
「根拠は?」
「え?」
「なぜ来週までなんだ」
ダグラスが理沙を見る。
「いや、それは……」
「なぜその雰囲気でなければならない」
「曲だから」
「説明になっていない」
ダグラスが一歩近づいた。
「もっと論理的に説明してくれ」
「ちょっと待って」
「要求するなら、相手が判断できる情報を与えるべきだ」
「だから、これは曲の――」
「目的は?」
「え?」
「目的だ」
ダグラスの顔がさらに近づいた。
「リサ」
「……」
「説明してくれ」
*
理沙は目を開けた。
薄暗い天井が見えた。
「……何よ」
しばらく動けなかった。
夢だった。
枕元の時計を見る。
午前6時27分。
目覚ましが鳴る3分前だった。
「最悪……」
理沙は布団へ顔を埋めた。
3分後。
予定どおり目覚ましが鳴った。
止める。
起き上がる。
頭の中には、まだフィリップとダグラスの顔が残っていた。
洗面所で顔を洗う。
鏡を見る。
「……私、あんな言い方してたっけ」
誰に聞くでもなく呟いた。
もちろん、答える人はいなかった。
*
その朝のシアトルは曇っていた。
道路は夜の雨で濡れている。
理沙はいつもより少し重い気分のまま、システムセンターへ向かった。
職場へ着く。
端末を起動する。
メールと作業状況を確認する。
その中に、ダグラスからの短いメッセージがあった。
<出勤したら、こちらへ来てくれ>
「……朝から?」
理沙は思わず画面を見返した。
夢の続きを見ているような気がした。
それでも席を立ち、ダグラスのところへ向かった。
*
ダグラスの席の前には、見慣れない男女が立っていた。
「来たか」
ダグラスが理沙を見る。
「おはようございます」
「おはよう」
ダグラスは二人へ視線を向けた。
「アトランタ近郊の新センター構築計画が動き始めた」
「アトランタ?」
「そうだ」
理沙は二人を見る。
「この二人が、現地側の作業管理を担当する」
二人が軽く会釈した。
理沙も返す。
「しばらくこちらで準備をする。その間、君から今のシステム管理と構築作業について説明してほしい」
「私が?」
思わず聞き返した。
「何か問題が?」
「いえ」
理沙は少しだけ間を置いた。
「ただ、私でいいのかなと思って」
「君が今担当している範囲を説明すればいい」
「分かりました」
「特に、新センター立ち上げ時の管理項目と、要求変更への対応方法だ」
「はい」
ダグラスは二人に向き直った。
「分からないことはリサに確認してくれ」
それだけ言うと、自分の画面へ戻った。
理沙は二人を見る。
二人も理沙を見る。
少し妙な間ができた。
「……じゃあ」
理沙が言った。
「まず、今動いてるシステムから見ますか」
*
最初は、簡単な説明だけにするつもりだった。
現在のシステム構成。
管理対象。
監視項目。
銀行側から要求が来たときの流れ。
理沙は大型画面へ構成図を表示した。
「ここが基盤側です」
指で示す。
「この上に業務システムが乗ります。ただ、私たちは上の業務そのものより、止めないための環境を見ることが多いです」
二人が画面を見る。
「例えば?」
一人が聞いた。
「通信経路。認証。サーバーの負荷。障害が起きたときの切り戻し。それから――」
理沙は次の画面を開いた。
「要件変更ですね」
「変更?」
「多いです」
理沙は少し笑った。
「かなり」
二人も笑った。
理沙は先月対応したセキュリティ要件を例にして説明した。
銀行側から要求が来る。
内容を理解する。
影響範囲を確認する。
対応方針を考える。
実装する。
テストする。
結果を返す。
話しているうちに、理沙自身が少し不思議な感覚を覚えた。
以前は、一つひとつ考えなければ理解できなかった。
ダグラスから質問されるたびに、資料へ戻っていた。
今は、その流れを何も見ずに説明している。
質問されれば答えられる。
少なくとも、自分が経験した範囲なら。
「なるほど」
一人が頷いた。
「じゃあ、具体的な作業手順は決まってるんですね」
「いや」
理沙は答えた。
「そこが一番面倒です」
「面倒?」
「決まってないことの方が多いです」
二人が顔を見合わせた。
理沙は少し前の自分を思い出した。
――具体的な作業手順は、どこにありますか?
あのとき、ダグラスは言った。
――それを考えるのが君の仕事だ。
理沙は口を開きかけた。
同じ言葉が出そうになった。
だが、やめた。
「まず」
理沙は構成図を指した。
「何を守らなきゃいけないのか、そこから整理するといいと思います」
「守る?」
「サービスなのか、データなのか、処理時間なのか。優先するものが決まれば、やることも少し絞れます」
「それでも分からなかったら?」
「そのときは聞いてください」
少し考える。
「ただし、分からないって言う前に、自分なりの案を一つ持ってきてもらえると助かります」
「案を?」
「正解じゃなくてもいいです」
理沙は言った。
「どこまで考えたのか分かれば、こっちも説明しやすいから」
二人は頷いた。
「分かりました」
「じゃあ、午後から実際にやってみましょう」
*
午後。
理沙はアトランタ側の新センターについて、簡単な仕様を確認した。
まだ計画初期だった。
決まっていることより、決まっていないことの方が多い。
「じゃあ、最初にこれ」
理沙は二人へ資料を送った。
「監視対象を整理してみてください」
「全部ですか?」
「まず大きく分けて」
「分類方法は?」
一人が聞いた。
理沙は答えようとした。
だが、少し止まった。
「何を基準に分けると、あとで管理しやすいと思います?」
二人が資料を見る。
「機器の種類?」
「それでもいいし」
「重要度?」
「それもある」
「拠点?」
「場合によっては」
理沙は頷いた。
「まず自分たちで一回作ってみてください」
「分かりました」
二人が席へ戻る。
理沙も自分の仕事へ戻った。
しばらくして、片方がまたやってきた。
「リサ、ここなんですけど」
資料を見せる。
理沙は内容を確認した。
答えはすぐに分かった。
ここはこうすればいい。
そう言えば、一分で終わる。
しかし理沙は少し考えた。
「この設定を変えたら、どこに影響します?」
「ここですか?」
「それだけ?」
「……あ」
相手が画面をスクロールした。
「こっちにも影響します」
「そうですね」
「じゃあ、先にこっちを確認します」
「その方がいいと思います」
相手は自分の席へ戻った。
理沙はその背中を見た。
何となく、朝の夢を思い出した。
「……似てきたな」
小さく呟く。
ただ。
全部同じになるつもりはなかった。
*
それから、理沙の仕事には少しずつ変化が出てきた。
もちろん、ダグラスからの課題がなくなったわけではない。
「リサ。昨日の案、もう一度見直してくれ」
「どこが問題です?」
「この条件だと、障害時の復旧が遅い」
「分かりました」
「今日中に」
「はい」
相変わらずだった。
しかし以前ほど、言われた瞬間に頭が真っ白になることはなくなった。
何を確認すればいいのか。
誰に聞けばいいのか。
どこまで自分で判断してよいのか。
少しずつ分かるようになっていた。
同じチームで働くもう一人の担当者も、似たような状態だった。
以前は互いに自分の仕事だけで手いっぱいだった。
今では、席を立ったついでに声をかける。
「それ、銀行側に確認した?」
「まだ」
「先に確認した方がいいかも」
「やっぱり?」
「後でひっくり返されると面倒だから」
「確かに」
昼食へ行く途中にも話す。
コーヒーを飲みながら話す。
アトランタの担当者を交え、画面を囲んで話す。
以前ならダグラスに持っていっていたような問題も、まず自分たちで整理するようになった。
「これって、技術の問題じゃないよね」
同僚が言った。
「たぶん」
理沙が答える。
「銀行側と現地側で前提が違う」
「じゃあ先にそこ合わせるか」
「うん。そのあと設計」
理沙は端末を閉じた。
設定画面を開く前に、話しておかなければならないことが増えていた。
*
ある日の夕方。
理沙は自分の作業記録を見ていた。
今日一日で何をしたのか確認する。
午前。
新任者への説明。
午後。
アトランタ側との打ち合わせ。
銀行側への確認。
ダグラスへの報告。
担当者同士の認識合わせ。
次週の課題整理。
理沙は画面を見た。
「……あれ?」
今日は、ほとんどシステムの設定を触っていなかった。
端末の前にはずっといた。
一日中、仕事をしていた。
それなのに、自分で設定を変更したのは、わずかな時間だけだった。
大半は話していた。
考えていた。
説明していた。
誰かの話を聞いていた。
理沙は少しだけ椅子にもたれた。
自動化のためのシステムを作っている。
その仕事を進めるために、人間同士が一日中話し合っている。
何となく、おかしかった。
*
アトランタの新センターについて、計画資料を確認する機会が増えた。
理沙はその日、工程表を眺めていた。
構築。
機材搬入。
接続。
試験。
移行。
運用開始。
見覚えのある工程が並んでいる。
ロサンゼルス交通管制センターでも、似たようなことをやった。
違うのは、規模と数だった。
理沙は計画一覧を開いた。
アトランタ。
その次。
さらに別の地域。
また別のセンター。
「……こんなに?」
画面をスクロールした。
一つではなかった。
新しい自動化システムを広げるため、今後も複数のセンターを順番に更新、あるいは新設する計画になっていた。
システムそのものは、今までより少ない人数で動かせる。
監視も自動化される。
障害検知も自動化される。
判断の一部まで、システムが行う。
その一方で。
センターを作るためには、人が必要だった。
機材を運ぶ人。
設置する人。
配線する人。
現地で確認する人。
トラブルが起きれば駆けつける人。
各拠点の担当者と話し、要件を整理する人。
そして、その人たちは次のセンターへ移る。
理沙は工程表を見つめた。
自動化が進めば、人間の仕事は減る。
少し前までは、そう思っていた。
確かに、なくなる仕事もある。
カーリーがいた交通管制センターのように。
だが、すべてがなくなるわけではない。
むしろ、その自動化を広げるために、別の人間たちが忙しく動き回っている。
理沙は画面を少し縮小した。
全体の計画が表示される。
西から東へ。
点がいくつも並んでいる。
その点を、人間が移動していく。
理沙は椅子の背へ身体を預けた。
「……結局、人が行くんだ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
画面の中では、新しいセンターの工程が静かに並んでいた。
システムは、これからもっと賢くなる。
もっと多くの仕事を、自動で処理するようになる。
そのために。
人間は、まだしばらく忙しく走り回ることになりそうだった。
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