結局、理沙がアトランタに滞在したのは、4週間ほどだった。
新しいシステムセンターは、予定どおり運用を開始した。
当初は細かな不具合もあったが、業務を止めるような大きな問題は発生していない。
構築作業に携わっていた人々も、少しずつ通常の業務へ戻り始めていた。
過労で倒れ、入院していた男性担当者も、数日前から職場へ復帰している。
まだ本調子ではなかった。
それでも、本人が早期の復帰を希望していたこともあり、しばらくは負担の少ない管理業務を中心に担当することになった。
「もう無理しないでね」
理沙が声をかけると、男性は少し照れたように笑った。
「分かってます」
「本当に?」
「……たぶん」
「そこは、はいって言うところでしょ」
近くにいた女性担当者が笑った。
男性も笑った。
以前のような疲れ切った表情ではなかった。
理沙は少しだけ安心した。
自分が現地にいなくても、もう大丈夫だろう。
アトランタでの仕事は、これで一区切りとなった。
*
早朝。
理沙はホテルを出た。
外はまだ薄暗かった。
車の後部座席に座り、窓の外を眺める。
空の端が、わずかに明るくなり始めていた。
4週間前。
アトランタに到着したときは、夜中の飛行機で眠りこけ、目を覚ましたらそのまま現場へ向かった。
ホテルに入ったのも、仕事を終えた夜だった。
それから3週間以上。
毎日、現場の調整に追われていた。
工程を確認する。
問題を整理する。
担当者と話す。
仕様を確認する。
予定を組み直す。
そんなことを繰り返しているうちに、4週間が過ぎていた。
理沙はシートの背にもたれた。
「……やっと帰れる」
小さく呟いた。
シアトルに戻れば、またダグラスから次の課題を与えられるのだろう。
それでも、今は少しだけ休みたかった。
空港へ向かう車は、朝の街を静かに走り続けていた。
*
アトランタ国際空港へ到着した。
搭乗手続きを済ませ、出発案内を確認する。
シアトル行きの便は、予定どおり表示されていた。
理沙は空港内の店で簡単な朝食を買い、搭乗口へ向かった。
しかし、そこで新しい案内が表示された。
出発遅延。
「……え?」
理沙は立ち止まった。
理由を確認する。
シアトル行きとして使用する予定の機体が、出発元の空港で機材トラブルを起こし、アトランタへ到着できなくなったらしい。
代替機を手配中。
出発時刻は未定。
「……そうですか」
理沙は画面を閉じた。
4週間の仕事を終え、ようやく帰れると思ったところだった。
ここで足止めを食らうとは。
仕方がない。
理沙はダグラスへ連絡を入れた。
<シアトル行きの便が機材トラブルで遅延しています。出発時刻は未定です。今日中に戻れない可能性もあります>
送信。
近くの椅子へ腰掛けた。
少しして、返信が届いた。
<了解。帰れなかったら、もう一泊してゆっくりしてきていい>
理沙は画面を見つめた。
「……へえ」
思わず笑った。
今日中。
明日まで。
すぐに対応してくれ。
いつもそんなことばかり言っているダグラスだった。
それが、もう一泊してもよいと言っている。
「珍しいこともあるものね」
理沙はスマートフォンをしまった。
もう一泊できるのなら、少しアトランタの街を歩いてみようか。
4週間も滞在していたのに、ホテルと職場の周辺以外はほとんど知らない。
せっかくだから、観光でもして帰ろう。
そんなことを考えながら、空港の案内を眺めていた。
ところが。
しばらくすると、新しいアナウンスが流れた。
シアトル行きの便について、代替機の手配が完了したという。
出発は、当初の予定から約3時間遅れ。
「……あら」
理沙は思わず声を漏らした。
これでは、街へ出るほどの時間はない。
かといって、搭乗口の前で3時間も座っているのは退屈だった。
「まあ、いいか」
理沙は立ち上がった。
久しぶりに、何も考えずに過ごそう。
そう思い、空港のラウンジへ向かった。
*
ラウンジは、思っていたよりも空いていた。
窓際の席がいくつか空いている。
理沙は滑走路の見える場所を選んだ。
バッグを置き、軽食を取りに行く。
パン。
サラダ。
少しばかりの肉料理。
それから、小さなグラスにビールを注いだ。
朝からビール。
普段なら、あまり考えない組み合わせだった。
しかし、今日はもう仕事をする必要がない。
飛行機に乗れば、あとはシアトルへ帰るだけだった。
「……お疲れさま」
誰に聞かせるでもなく呟き、グラスを口へ運んだ。
冷たい。
理沙は少しだけ目を細めた。
それから、窓の外へ視線を向けた。
*
目の前には、広大な空港が広がっていた。
何本もの誘導路。
その向こうに、長く延びる滑走路。
旅客機がゆっくりと地上を移動している。
遠くでは、別の機体が離陸しようとしていた。
理沙はフォークに刺した野菜を口へ運びながら、その様子を眺めた。
大型の旅客機が滑走路へ入る。
しばらくして、エンジンの推力が上がった。
機体が走り始める。
加速する。
やがて、ゆっくりと機首が持ち上がった。
車輪が地面を離れる。
機体は朝の空へ上がっていった。
理沙は、その姿を目で追った。
そのすぐ後ろでは、別の航空機が着陸していた。
次から次へ。
ほとんど間を置かずに、航空機が離着陸を繰り返している。
アトランタ国際空港は、全米でも有数の大規模なハブ空港だった。
国内線。
国際線。
貨物便。
さまざまな航空機が、ここを経由して各地へ向かっていく。
理沙はビールを一口飲んだ。
窓のすぐ向こうでは、駐機中の旅客機の周囲を何台もの作業車両が走り回っていた。
貨物を積み込む車両。
機内食を運ぶ車両。
給油車。
機体を点検する作業員。
次の便へ向けた準備が、絶え間なく進められている。
一機が出発すると、空いた場所へ別の機体が入ってくる。
その周囲に、また作業車両が集まる。
しばらくすると、次の出発準備が整う。
理沙は頬杖をついた。
「……よくできてるなあ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
空港全体が、一つの大きな仕組みのように動いていた。
けれど、そこには無数の人間がいる。
機体を点検する人。
荷物を運ぶ人。
乗客を案内する人。
交通を整理する人。
それぞれが、自分の仕事をしている。
その一つひとつが重なって、巨大な空港は動き続けていた。
4週間前、アトランタに到着したときは、こんな風景を眺める余裕すらなかった。
理沙は窓の外を見たまま、もう一口ビールを飲んだ。
なぜか、飽きなかった。
*
しばらくすると、遠くを移動していた一機の航空機が、滑走路の端で停止した。
離陸の順番を待っているらしい。
理沙はその姿を眺めていた。
そこで、ふと視線がさらに遠くへ向いた。
滑走路の向こう側。
既存の空港施設から少し離れた場所で、何か大きな工事が進められていた。
建設用のクレーンが何本も立っている。
巨大な建物。
その前には、新しい滑走路のようなものが長く延びていた。
「……何だろう」
理沙は少し身を乗り出した。
旅客機用の新しいターミナルだろうか。
それにしては、建物の形が少し違うような気がした。
周囲には、見慣れない設備も並んでいる。
理沙はしばらくその場所を眺めていた。
ちょうど、ラウンジのスタッフが近くを通りかかった。
「あの」
理沙が声をかけた。
「はい?」
スタッフが立ち止まる。
「向こうで工事しているの、何ですか?」
理沙は窓の外を指した。
スタッフはその方向を見た。
「ああ、あれですか」
すぐに分かったようだった。
「新しいスペースポートですよ」
「スペースポート?」
「ええ。宇宙往還シャトルのための施設です。来年完成する予定なんですよ」
理沙は、もう一度窓の外を見た。
「……宇宙へ行くシャトル?」
「そうです。ここからも飛ぶようになるんですよ」
スタッフは、ごく普通のことのように答えた。
「旅客機とは、また違う設備が必要になるので、専用の施設を造っているんです」
「へえ……」
理沙は建設中の建物を見つめた。
空港の一角で、宇宙へ向かうための施設が造られている。
それも、特別な秘密施設というわけではない。
普段の航空機が離着陸している、同じ空港の中だった。
*
「映像がありますよ」
スタッフが言った。
「完成すると、こんな感じになるそうです」
近くのテーブルに備え付けられていた情報端末を操作する。
画面に、完成予想図が表示された。
理沙は少し椅子を寄せた。
巨大な建物。
広い滑走路。
その周囲に、整然と並んだ整備施設。
現在建設中の場所が、完成すればどのようになるのかを示した映像だった。
やがて、画面に一機の航空機が現れた。
「……大きい」
理沙は思わず呟いた。
通常の大型旅客機よりも、さらに大きく見える機体。
その背中には、もう一機の航空機が載っていた。
中型旅客機ほどの大きさだろうか。
ただし、その形は旅客機とは少し違っていた。
翼は小さく、胴体は滑らかな曲線を描いている。
機体後部には、ロケット推進用と思われるノズルが並んでいた。
「二つで一組なんです」
スタッフが言った。
「下の大きな機体が親機で、背中に載っている方が宇宙へ向かうシャトルです」
画面の中で、親機が滑走路を走り始めた。
加速する。
機首が持ち上がる。
二機を重ねたまま、ゆっくりと空へ上がっていった。
やがて高度が上がり、雲の上へ出る。
画面の隅に、高度が表示された。
一万五千メートル。
そこで、背中に載っていた子機が切り離された。
親機から離れ、少しずつ距離を取る。
やがて、子機の後部から眩しい噴射光が伸びた。
ロケット推進。
機体は加速し、さらに高い空へ向かっていった。
親機は大きく旋回し、地上の空港へ戻っていく。
映像は切り替わった。
地球の青い曲面。
その上を、子機が飛んでいる。
さらに映像が進む。
宇宙での任務を終えた子機が大気圏へ戻り、翼を使って降下していく。
そして、地上の滑走路へ着陸した。
機体はゆっくりと減速し、整備施設へ向かった。
それで、映像は終わった。
「……なるほど」
理沙は画面を見つめた。
下の大きな機体は、宇宙まで行く必要がない。
宇宙へ行くのは、背中に載っていた子機だけ。
目的を終えれば、再び空港へ戻ってくる。
その仕組み自体は、理沙にも何となく理解できた。
「これが、ここから飛ぶんですか?」
「そうですよ」
スタッフは窓の外を指した。
「向こうの専用滑走路から」
理沙は顔を上げた。
先ほど見ていた建設現場。
まだ完成していない建物。
工事車両が動き回っている滑走路。
その場所から、今見たシャトルが飛び立つことになる。
「……すごいですね」
「完成が楽しみです」
スタッフは笑った。
理沙も小さく笑った。
「ありがとうございました」
「ごゆっくり」
スタッフはそう言って、別のテーブルへ向かった。
*
理沙は、もう一度情報端末の画面を見た。
映像は、完成予想図の最初の場面に戻っていた。
巨大な親機。
その背中に載せられたシャトル。
何となく、見覚えがあった。
理沙は少し考えた。
東京湾。
人工島。
あのとき見た、シャトルの出発風景。
「……そういえば」
2年近く前。
東京湾の人工島からシャトルが飛び立つ光景を見たことがあった。
あのときは、ただ遠くの空へ向かっていく機体を眺めていた。
宇宙へ行く。
その言葉には、まだどこか現実離れした響きがあった。
特別な場所から、特別な人たちが飛び立っていく。
自分の日常とは、少し離れた世界。
そんな印象だった。
けれど、今は。
理沙は顔を上げた。
窓の外では、旅客機が一機、滑走路へ向かっていた。
その向こうに、スペースポートの建設現場が見える。
建設用のクレーンが動いている。
工事車両が走っている。
人々が働いている。
特別な雰囲気はなかった。
空港のスタッフも、来年完成する予定の施設として、ごく普通に説明してくれた。
理沙は再び窓の外へ視線を向けた。
旅客機が離陸する。
また別の機体が着陸する。
貨物車両が移動する。
作業員たちが、次の出発へ向けて準備を進めている。
今はまだ、そこに宇宙往還シャトルの姿はない。
ただ、来年になれば。
同じ空港から、あの機体が飛び立つようになる。
理沙は少しだけ口元を緩めた。
「……そういう時代か」
小さく呟いた。
*
ラウンジの窓から、もう一度滑走路の向こうを眺めた。
建設中のスペースポート。
そのさらに向こうには、明るい空が広がっている。
理沙は、残っていたビールを飲み干した。
テーブルの上を片づける。
そろそろ、シアトル行きの便が到着するころだった。
スマートフォンを取り出し、搭乗案内を確認する。
予定どおり、代替機がアトランタへ向かっているらしい。
理沙は立ち上がった。
バッグを肩へ掛ける。
窓の外では、また一機、旅客機が空へ上がっていった。
その向こうには、先ほどと変わらず建設用のクレーンが立っている。
何気なく眺めていた空港の風景。
それが、少しだけ違って見えた。
理沙はもう一度、遠くの建設現場へ視線を向けた。
そして、そのままラウンジを後にした。
シアトルへ戻れば、またいつもの仕事が待っている。
明日には、ダグラスから次の課題が届くのだろう。
そんなことを考えながら、理沙は搭乗口へ向かった。
背後の窓の向こうでは、航空機が絶え間なく離着陸を繰り返していた。
その少し先で、宇宙へ続く新しい滑走路が、静かに造られていた。
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