003_15_アトランタ国際空港

 結局、理沙がアトランタに滞在したのは、4週間ほどだった。

 新しいシステムセンターは、予定どおり運用を開始した。

 当初は細かな不具合もあったが、業務を止めるような大きな問題は発生していない。

 構築作業に携わっていた人々も、少しずつ通常の業務へ戻り始めていた。

 過労で倒れ、入院していた男性担当者も、数日前から職場へ復帰している。

 まだ本調子ではなかった。

 それでも、本人が早期の復帰を希望していたこともあり、しばらくは負担の少ない管理業務を中心に担当することになった。

「もう無理しないでね」

 理沙が声をかけると、男性は少し照れたように笑った。

「分かってます」

「本当に?」

「……たぶん」

「そこは、はいって言うところでしょ」

 近くにいた女性担当者が笑った。

 男性も笑った。

 以前のような疲れ切った表情ではなかった。

 理沙は少しだけ安心した。

 自分が現地にいなくても、もう大丈夫だろう。

 アトランタでの仕事は、これで一区切りとなった。

     *

 早朝。

 理沙はホテルを出た。

 外はまだ薄暗かった。

 車の後部座席に座り、窓の外を眺める。

 空の端が、わずかに明るくなり始めていた。

 4週間前。

 アトランタに到着したときは、夜中の飛行機で眠りこけ、目を覚ましたらそのまま現場へ向かった。

 ホテルに入ったのも、仕事を終えた夜だった。

 それから3週間以上。

 毎日、現場の調整に追われていた。

 工程を確認する。

 問題を整理する。

 担当者と話す。

 仕様を確認する。

 予定を組み直す。

 そんなことを繰り返しているうちに、4週間が過ぎていた。

 理沙はシートの背にもたれた。

「……やっと帰れる」

 小さく呟いた。

 シアトルに戻れば、またダグラスから次の課題を与えられるのだろう。

 それでも、今は少しだけ休みたかった。

 空港へ向かう車は、朝の街を静かに走り続けていた。

     *

 アトランタ国際空港へ到着した。

 搭乗手続きを済ませ、出発案内を確認する。

 シアトル行きの便は、予定どおり表示されていた。

 理沙は空港内の店で簡単な朝食を買い、搭乗口へ向かった。

 しかし、そこで新しい案内が表示された。

 出発遅延。

「……え?」

 理沙は立ち止まった。

 理由を確認する。

 シアトル行きとして使用する予定の機体が、出発元の空港で機材トラブルを起こし、アトランタへ到着できなくなったらしい。

 代替機を手配中。

 出発時刻は未定。

「……そうですか」

 理沙は画面を閉じた。

 4週間の仕事を終え、ようやく帰れると思ったところだった。

 ここで足止めを食らうとは。

 仕方がない。

 理沙はダグラスへ連絡を入れた。

 <シアトル行きの便が機材トラブルで遅延しています。出発時刻は未定です。今日中に戻れない可能性もあります>

 送信。

 近くの椅子へ腰掛けた。

 少しして、返信が届いた。

 <了解。帰れなかったら、もう一泊してゆっくりしてきていい>

 理沙は画面を見つめた。

「……へえ」

 思わず笑った。

 今日中。

 明日まで。

 すぐに対応してくれ。

 いつもそんなことばかり言っているダグラスだった。

 それが、もう一泊してもよいと言っている。

「珍しいこともあるものね」

 理沙はスマートフォンをしまった。

 もう一泊できるのなら、少しアトランタの街を歩いてみようか。

 4週間も滞在していたのに、ホテルと職場の周辺以外はほとんど知らない。

 せっかくだから、観光でもして帰ろう。

 そんなことを考えながら、空港の案内を眺めていた。

 ところが。

 しばらくすると、新しいアナウンスが流れた。

 シアトル行きの便について、代替機の手配が完了したという。

 出発は、当初の予定から約3時間遅れ。

「……あら」

 理沙は思わず声を漏らした。

 これでは、街へ出るほどの時間はない。

 かといって、搭乗口の前で3時間も座っているのは退屈だった。

「まあ、いいか」

 理沙は立ち上がった。

 久しぶりに、何も考えずに過ごそう。

 そう思い、空港のラウンジへ向かった。

     *

 ラウンジは、思っていたよりも空いていた。

 窓際の席がいくつか空いている。

 理沙は滑走路の見える場所を選んだ。

 バッグを置き、軽食を取りに行く。

 パン。

 サラダ。

 少しばかりの肉料理。

 それから、小さなグラスにビールを注いだ。

 朝からビール。

 普段なら、あまり考えない組み合わせだった。

 しかし、今日はもう仕事をする必要がない。

 飛行機に乗れば、あとはシアトルへ帰るだけだった。

「……お疲れさま」

 誰に聞かせるでもなく呟き、グラスを口へ運んだ。

 冷たい。

 理沙は少しだけ目を細めた。

 それから、窓の外へ視線を向けた。

     *

 目の前には、広大な空港が広がっていた。

 何本もの誘導路。

 その向こうに、長く延びる滑走路。

 旅客機がゆっくりと地上を移動している。

 遠くでは、別の機体が離陸しようとしていた。

 理沙はフォークに刺した野菜を口へ運びながら、その様子を眺めた。

 大型の旅客機が滑走路へ入る。

 しばらくして、エンジンの推力が上がった。

 機体が走り始める。

 加速する。

 やがて、ゆっくりと機首が持ち上がった。

 車輪が地面を離れる。

 機体は朝の空へ上がっていった。

 理沙は、その姿を目で追った。

 そのすぐ後ろでは、別の航空機が着陸していた。

 次から次へ。

 ほとんど間を置かずに、航空機が離着陸を繰り返している。

 アトランタ国際空港は、全米でも有数の大規模なハブ空港だった。

 国内線。

 国際線。

 貨物便。

 さまざまな航空機が、ここを経由して各地へ向かっていく。

 理沙はビールを一口飲んだ。

 窓のすぐ向こうでは、駐機中の旅客機の周囲を何台もの作業車両が走り回っていた。

 貨物を積み込む車両。

 機内食を運ぶ車両。

 給油車。

 機体を点検する作業員。

 次の便へ向けた準備が、絶え間なく進められている。

 一機が出発すると、空いた場所へ別の機体が入ってくる。

 その周囲に、また作業車両が集まる。

 しばらくすると、次の出発準備が整う。

 理沙は頬杖をついた。

「……よくできてるなあ」

 誰に聞かせるでもなく呟いた。

 空港全体が、一つの大きな仕組みのように動いていた。

 けれど、そこには無数の人間がいる。

 機体を点検する人。

 荷物を運ぶ人。

 乗客を案内する人。

 交通を整理する人。

 それぞれが、自分の仕事をしている。

 その一つひとつが重なって、巨大な空港は動き続けていた。

 4週間前、アトランタに到着したときは、こんな風景を眺める余裕すらなかった。

 理沙は窓の外を見たまま、もう一口ビールを飲んだ。

 なぜか、飽きなかった。

     *

 しばらくすると、遠くを移動していた一機の航空機が、滑走路の端で停止した。

 離陸の順番を待っているらしい。

 理沙はその姿を眺めていた。

 そこで、ふと視線がさらに遠くへ向いた。

 滑走路の向こう側。

 既存の空港施設から少し離れた場所で、何か大きな工事が進められていた。

 建設用のクレーンが何本も立っている。

 巨大な建物。

 その前には、新しい滑走路のようなものが長く延びていた。

「……何だろう」

 理沙は少し身を乗り出した。

 旅客機用の新しいターミナルだろうか。

 それにしては、建物の形が少し違うような気がした。

 周囲には、見慣れない設備も並んでいる。

 理沙はしばらくその場所を眺めていた。

 ちょうど、ラウンジのスタッフが近くを通りかかった。

「あの」

 理沙が声をかけた。

「はい?」

 スタッフが立ち止まる。

「向こうで工事しているの、何ですか?」

 理沙は窓の外を指した。

 スタッフはその方向を見た。

「ああ、あれですか」

 すぐに分かったようだった。

「新しいスペースポートですよ」

「スペースポート?」

「ええ。宇宙往還シャトルのための施設です。来年完成する予定なんですよ」

 理沙は、もう一度窓の外を見た。

「……宇宙へ行くシャトル?」

「そうです。ここからも飛ぶようになるんですよ」

 スタッフは、ごく普通のことのように答えた。

「旅客機とは、また違う設備が必要になるので、専用の施設を造っているんです」

「へえ……」

 理沙は建設中の建物を見つめた。

 空港の一角で、宇宙へ向かうための施設が造られている。

 それも、特別な秘密施設というわけではない。

 普段の航空機が離着陸している、同じ空港の中だった。

     *

「映像がありますよ」

 スタッフが言った。

「完成すると、こんな感じになるそうです」

 近くのテーブルに備え付けられていた情報端末を操作する。

 画面に、完成予想図が表示された。

 理沙は少し椅子を寄せた。

 巨大な建物。

 広い滑走路。

 その周囲に、整然と並んだ整備施設。

 現在建設中の場所が、完成すればどのようになるのかを示した映像だった。

 やがて、画面に一機の航空機が現れた。

「……大きい」

 理沙は思わず呟いた。

 通常の大型旅客機よりも、さらに大きく見える機体。

 その背中には、もう一機の航空機が載っていた。

 中型旅客機ほどの大きさだろうか。

 ただし、その形は旅客機とは少し違っていた。

 翼は小さく、胴体は滑らかな曲線を描いている。

 機体後部には、ロケット推進用と思われるノズルが並んでいた。

「二つで一組なんです」

 スタッフが言った。

「下の大きな機体が親機で、背中に載っている方が宇宙へ向かうシャトルです」

 画面の中で、親機が滑走路を走り始めた。

 加速する。

 機首が持ち上がる。

 二機を重ねたまま、ゆっくりと空へ上がっていった。

 やがて高度が上がり、雲の上へ出る。

 画面の隅に、高度が表示された。

 一万五千メートル。

 そこで、背中に載っていた子機が切り離された。

 親機から離れ、少しずつ距離を取る。

 やがて、子機の後部から眩しい噴射光が伸びた。

 ロケット推進。

 機体は加速し、さらに高い空へ向かっていった。

 親機は大きく旋回し、地上の空港へ戻っていく。

 映像は切り替わった。

 地球の青い曲面。

 その上を、子機が飛んでいる。

 さらに映像が進む。

 宇宙での任務を終えた子機が大気圏へ戻り、翼を使って降下していく。

 そして、地上の滑走路へ着陸した。

 機体はゆっくりと減速し、整備施設へ向かった。

 それで、映像は終わった。

「……なるほど」

 理沙は画面を見つめた。

 下の大きな機体は、宇宙まで行く必要がない。

 宇宙へ行くのは、背中に載っていた子機だけ。

 目的を終えれば、再び空港へ戻ってくる。

 その仕組み自体は、理沙にも何となく理解できた。

「これが、ここから飛ぶんですか?」

「そうですよ」

 スタッフは窓の外を指した。

「向こうの専用滑走路から」

 理沙は顔を上げた。

 先ほど見ていた建設現場。

 まだ完成していない建物。

 工事車両が動き回っている滑走路。

 その場所から、今見たシャトルが飛び立つことになる。

「……すごいですね」

「完成が楽しみです」

 スタッフは笑った。

 理沙も小さく笑った。

「ありがとうございました」

「ごゆっくり」

 スタッフはそう言って、別のテーブルへ向かった。

     *

 理沙は、もう一度情報端末の画面を見た。

 映像は、完成予想図の最初の場面に戻っていた。

 巨大な親機。

 その背中に載せられたシャトル。

 何となく、見覚えがあった。

 理沙は少し考えた。

 東京湾。

 人工島。

 あのとき見た、シャトルの出発風景。

「……そういえば」

 2年近く前。

 東京湾の人工島からシャトルが飛び立つ光景を見たことがあった。

 あのときは、ただ遠くの空へ向かっていく機体を眺めていた。

 宇宙へ行く。

 その言葉には、まだどこか現実離れした響きがあった。

 特別な場所から、特別な人たちが飛び立っていく。

 自分の日常とは、少し離れた世界。

 そんな印象だった。

 けれど、今は。

 理沙は顔を上げた。

 窓の外では、旅客機が一機、滑走路へ向かっていた。

 その向こうに、スペースポートの建設現場が見える。

 建設用のクレーンが動いている。

 工事車両が走っている。

 人々が働いている。

 特別な雰囲気はなかった。

 空港のスタッフも、来年完成する予定の施設として、ごく普通に説明してくれた。

 理沙は再び窓の外へ視線を向けた。

 旅客機が離陸する。

 また別の機体が着陸する。

 貨物車両が移動する。

 作業員たちが、次の出発へ向けて準備を進めている。

 今はまだ、そこに宇宙往還シャトルの姿はない。

 ただ、来年になれば。

 同じ空港から、あの機体が飛び立つようになる。

 理沙は少しだけ口元を緩めた。

「……そういう時代か」

 小さく呟いた。

     *

 ラウンジの窓から、もう一度滑走路の向こうを眺めた。

 建設中のスペースポート。

 そのさらに向こうには、明るい空が広がっている。

 理沙は、残っていたビールを飲み干した。

 テーブルの上を片づける。

 そろそろ、シアトル行きの便が到着するころだった。

 スマートフォンを取り出し、搭乗案内を確認する。

 予定どおり、代替機がアトランタへ向かっているらしい。

 理沙は立ち上がった。

 バッグを肩へ掛ける。

 窓の外では、また一機、旅客機が空へ上がっていった。

 その向こうには、先ほどと変わらず建設用のクレーンが立っている。

 何気なく眺めていた空港の風景。

 それが、少しだけ違って見えた。

 理沙はもう一度、遠くの建設現場へ視線を向けた。

 そして、そのままラウンジを後にした。

 シアトルへ戻れば、またいつもの仕事が待っている。

 明日には、ダグラスから次の課題が届くのだろう。

 そんなことを考えながら、理沙は搭乗口へ向かった。

 背後の窓の向こうでは、航空機が絶え間なく離着陸を繰り返していた。

 その少し先で、宇宙へ続く新しい滑走路が、静かに造られていた。



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