003_17_肩たたきに逢う

 シアトルにも、再び夏がやってきた。

 朝の空は明るかった。

 窓から差し込む日差しを感じながら、理沙はベッドの上で目を覚ました。

 時計を見る。

 目覚ましが鳴るまで、まだ少し時間がある。

 理沙は仰向けになり、天井を眺めた。

 ふと、思い出す。

 ロサンゼルスへ来て、最初に借りたアパート。

 狭い部屋。

 効きの悪い空調。

 窓の外に並んでいた、隣のビルの室外機。

 そして、天井の隅で剥がれかけていたクロス。

 仕事が見つからず、毎日スマートフォンを眺めていた。

 あのころは、明日何をしようかと考えるだけで、一日が終わっていた。

「……もう一年か」

 理沙は小さく呟いた。

 米国へ来てから、もうすぐ一年になる。

 ロサンゼルスで暮らし始めたころには、一年頑張って仕事が見つからなければ、そのときに帰国するかどうか考えようと思っていた。

 その一年が、もう終わろうとしている。

 今はシアトルで働いている。

 金融系システムセンターの管理業務。

 大規模なシステム更改。

 全米各地の新センター構築。

 アトランタへの出張。

 以前なら、考えもしなかった仕事を経験した。

 貯金も、ロサンゼルスへ来たばかりのころほど心配する必要はなくなっていた。

 仕事を探す方法も分かってきた。

 それでも。

 この先、自分はどこで、何をしているのだろう。

 理沙は天井を見つめた。

 答えは出なかった。

 やがて目覚ましが鳴った。

「……はいはい」

 理沙は身体を起こした。

 今日も仕事だった。

     *

 アトランタの新センターが稼働を始めてから、しばらく経っていた。

 全米に分散するバンキングセンター網は、すでに通常の運用へ移っている。

 大規模な災害対策テストも完了した。

 各地のセンターでは、少人数の管理スタッフがシステムの監視と保守を続けていた。

 理沙たちシアトルの管理チームも、次の仕事へ移り始めていた。

 次期システム更改。

 現在のシステムに、新しい技術を取り込む。

 運用の自動化をさらに進める。

 新しい金融サービスに対応できるよう、システム基盤を拡張する。

 そんな計画が動き始めていた。

 理沙は、同僚と一緒に新しい構成案をまとめていた。

「ここの処理、次の基盤へ移せるかな」

 同僚が画面を指した。

「移せると思うけど」

 理沙は資料を開いた。

「運用条件が変わるから、銀行側に確認した方がいいね」

「そうだな」

「あと、こっちの監視機能も見直したい」

「それ、今回の対象に入ってた?」

「まだ。提案してみようと思って」

 理沙は画面を切り替えた。

 少し前までなら、ダグラスからの課題に対応するだけで精一杯だった。

 今は、自分から新しい案を出すことも増えていた。

 仕事の進め方にも慣れてきた。

 ようやく、少し先のことを考える余裕が生まれていた。

     *

 ところが、次期システム更改の計画は、なかなか先へ進まなかった。

 新しい要求仕様は届いている。

 技術的な検討も進んでいる。

 それなのに、正式な設計開始の承認が下りない。

 ある日。

 理沙の端末に、銀行側から追加資料の提出依頼が届いた。

 理沙は内容を確認した。

「……あれ?」

 技術仕様の確認ではなかった。

 新システムによる運用経費の削減効果。

 既存システムを継続した場合との費用比較。

 新しいサービスによる収益拡大の見込み。

 投資回収までの期間。

 細かな項目が並んでいる。

 理沙は資料を最後まで読んだ。

 そのあと、ダグラスの席へ向かった。

「ダグラス」

「何だ?」

「銀行側から、追加資料が来ています」

「見た」

「これ、私たちが考えることなんですか?」

 ダグラスが理沙を見る。

「どの部分だ?」

「投資効果です。新しいシステムを作れば、どのくらい利益が増えるのかって」

 理沙は画面を見せた。

「技術的にできるかどうかなら分かりますけど、利益がどのくらい増えるかまでは……」

 ダグラスは資料を眺めた。

「利益そのものを予測するのは、事業側の仕事だ」

「ですよね」

「ただし、技術的な根拠はこちらで出さなければならない」

「根拠?」

「新しい基盤で何ができるのか。運用コストがどこまで下がるのか。現行システムでは対応できないことは何か」

 ダグラスは画面の一部を指した。

「それを示さなければ、事業側も判断できない」

「……なるほど」

「新しい技術が使えるというだけでは、投資の理由にはならないからな」

 理沙は少し考えた。

 確かに、今のシステムは問題なく動いている。

 日々の運用も安定している。

 大規模な障害が頻発しているわけでもない。

 それでも新しいシステムを作ろうとしているのは、技術が進歩し、さらに効率のよい仕組みを実現できるようになったからだった。

 だが、それだけでは足りないらしい。

「……分かりました」

 理沙は頷いた。

「こっちで出せる数字を、整理してみます」

「頼む」

 ダグラスは自分の画面へ戻った。

 理沙も席へ戻った。

 新しい資料を開く。

 システムの構成図。

 運用コスト。

 必要人員。

 設備投資。

 それらを見比べながら、理沙は小さく息を吐いた。

「……技術だけじゃないのね」

     *

 それから数週間。

 次期システム更改の計画は、進んでは止まり、また少し進んでは止まった。

 銀行側のシステム部門からは、新しい技術を取り込みたいという要求が届く。

 その一方で、経営側からは投資効果についての追加説明が求められる。

 理沙たちは構成案を見直した。

 新しい機器を導入する場合。

 既存の設備を使い続ける場合。

 一部の機能だけを更新する場合。

 それぞれの費用と効果を比較する。

 会議も増えた。

 しかし、正式な承認は下りなかった。

 ある日の夕方。

 理沙は同僚と、次期システムの工程表を眺めていた。

「また延期?」

 理沙が聞いた。

「みたいだね」

「今度は何?」

「投資委員会で、もう一度検討するらしい」

「……何回目だろ」

「さあ」

 同僚は肩をすくめた。

「現場は始める気満々なんだけどな」

「そりゃそうでしょ。次の要件、もう来てるし」

「でも、金を出す方は違うらしい」

「……でしょうね」

 理沙は工程表を閉じた。

 新しい技術を取り込むことには、意味がある。

 今のシステムより、さらに効率よく動かせるようになる。

 新しいサービスにも対応できる。

 しかし、それがどのくらいの利益につながるのか。

 その答えを出せなければ、計画は動かない。

 現場の人間が、どれほど準備を進めていても。

 理沙は、そういうものなのだろうと思い始めていた。

     *

 数日後。

 ダグラスのもとに、銀行側から正式な通知が届いた。

 次期システム更改に関する投資計画を、当面見直すという内容だった。

 新しい金融サービスに関する事業計画も、再検討されることになった。

 事実上の計画凍結だった。

 理沙たちの作業チームも、会議室へ呼ばれた。

     *

 会議室には、管理スタッフが集まっていた。

 理沙は同僚の隣へ座った。

 ダグラスが前に立つ。

 手元の資料を一度確認した。

 そして、顔を上げた。

「体制の維持が難しくなった」

 いきなりだった。

 理沙はダグラスを見た。

 彼らしい言い方だった。

「次期システム更改の投資計画が、当面凍結されることになった」

 ダグラスは続けた。

「現行システムの運用は継続する。ただし、新しい基盤の構築に向けた作業については、現時点で正式な開始の見通しが立っていない」

 室内は静かだった。

「したがって、現在の管理・構築チームを、これまでと同じ規模で維持することはできない」

 理沙は小さく息を吐いた。

「……またか」

 誰にも聞こえない程度の声だった。

 予想していなかったわけではない。

 ここ数週間の動きを見ていれば、何となく分かっていた。

 それでも、実際に聞くと少し拍子抜けした。

 ロサンゼルスでは、システムが完成したことで仕事が終わった。

 シアトルでは、次のシステムを作るための仕事が、始まる前に止まってしまった。

 理由は違う。

 結果は、似たようなものだった。

     *

 ダグラスは、今後の体制について説明を続けた。

 現行システムの運用に必要な要員は残す。

 次期更改に向けた設計・構築要員については、契約の終了や配置転換を進める。

 引き継ぎが必要な業務については、担当者ごとに整理する。

 理沙も、現在の契約を終える方向で調整されることになった。

 正式な終了日については、後日連絡するとのことだった。

「質問は?」

 ダグラスが会議室を見回した。

 何人かが、契約終了時期や引き継ぎについて質問した。

 ダグラスは一つずつ答えた。

 分からないことについては、分からないと答えた。

 理沙は黙って聞いていた。

 やがて会議が終わった。

 メンバーたちは、静かに席を立ち始めた。

 理沙も資料を持って立ち上がった。

 隣の同僚が声をかけてきた。

「リサ、次どうする?」

「まだ決めてない」

「そうか」

「そっちは?」

「少し休もうかな」

「いいね」

「どうせ、またどこかから呼ばれるだろ」

「そうだね」

 二人は少し笑った。

 それぞれ、自分の席へ戻っていった。

     *

 午後。

 理沙は職探しエージェントを開いていた。

 もう、以前のように不安な気持ちで画面を開くことはなかった。

 自分の職歴を確認する。

 ロサンゼルス交通管制センター。

 シアトル金融系システムセンター。

 アトランタ新センター構築支援。

 全米バンキングセンター網の災害対策テスト。

 技術的な経験だけでなく、現地の作業管理や担当者の育成に関わった実績もある。

 求人一覧を開く。

 いくつもの案件が表示された。

 理沙は条件を絞った。

 システム管理。

 インフラ構築。

 技術管理。

 現場支援。

 募集情報が、さらに並んだ。

「……結構あるな」

 理沙は一件ずつ確認し始めた。

     *

 最初に目に留まったのは、ロサンゼルス近郊のシステム関連業務だった。

 勤務地。

 給与。

 必要な経験。

 理沙は内容を読んだ。

 今の仕事とは少し違うが、経験を生かせそうだった。

 ロサンゼルス。

 その地名を見て、カーリーの顔が浮かんだ。

 最近も、時々メッセージをやり取りしている。

 もう一度、あの街で働くのも悪くない。

 カーリーとも、以前より気軽に会えるだろう。

 理沙は求人を保存した。

 次。

 テキサスの航空宇宙関連管制システム。

 既存システムのグレードアップ。

 新しい監視・制御基盤の導入。

 現地での構築支援。

「……へえ」

 理沙は内容を読み進めた。

 これまでの金融系システムとは、少し違う分野だった。

 それでも、システム管理という点では共通するものがある。

 アトランタ空港で見たスペースポートのことが、何となく頭に浮かんだ。

 理沙はその求人も保存した。

 さらに次。

 東海岸の証券会社。

 大規模システムの運用管理。

 セキュリティ対応。

 次期基盤への移行支援。

 これなら、今の仕事の経験をそのまま使えそうだった。

 給与条件も悪くない。

「……これもありかな」

 理沙は保存した。

     *

 三件の求人情報を並べてみる。

 ロサンゼルス。

 テキサス。

 東海岸。

 勤務地も、仕事内容も、それぞれ違う。

 どれも、応募してみる価値はありそうだった。

 理沙は椅子の背にもたれた。

 一年前。

 ロサンゼルスの小さなアパートで、何度も求人へ応募していた。

 面談に進むことすらできなかった。

 あのころは、仕事を選んでいる場合ではなかった。

 今は違う。

 次の仕事は、見つけられるだろう。

 少なくとも、そう思えるだけの経験は積んできた。

 問題は、どこへ行くかだった。

「……さて」

 理沙は画面を眺めた。

 ロサンゼルスへ戻るか。

 テキサスへ行くか。

 東海岸で、また金融系の仕事を続けるか。

 どれも悪くない。

 ただ、どれか一つを選ぼうという気持ちには、なぜかなれなかった。

 理沙は求人情報を閉じた。

 今すぐ決める必要はない。

 そう思った。

     *

 翌週から、理沙は担当業務の引き継ぎ資料を整理し始めた。

 現行システムの運用手順。

 監視項目。

 障害発生時の対応。

 設定変更の記録。

 各センターとの連絡方法。

 アトランタでの作業実績。

 新任者へ説明した内容。

 必要なものを一つずつ確認し、資料にまとめていく。

 これまで何度もやってきた作業だった。

 ロサンゼルス交通管制センターを離れるときも、同じようなことをした。

 アトランタからシアトルへ戻るときも、現地担当者へ資料を残した。

 自分がいなくなっても、仕事が続くようにする。

 それが、引き継ぎだった。

     *

 ある日の夕方。

 理沙は、アトランタ新センターに関する資料を確認していた。

 構築時の作業記録。

 発生した問題。

 対応方針。

 変更した設定。

 今後の運用で注意すべき点。

 必要なことは、ほとんど書き終えていた。

 理沙は資料を最後まで読み返した。

 大きな漏れはなさそうだった。

 保存する。

 次の資料を開く。

 現行システムの監視手順。

 こちらも、ほぼ完成している。

 理沙は画面を閉じた。

「……これでいいかな」

 誰に聞かせるでもなく呟いた。

 引き継ぎ先の担当者が、この資料を見れば、必要な作業を続けられるはずだった。

 分からないことがあれば、ダグラスもいる。

 同僚もいる。

 システムの運用は続く。

 自分がいなくなっても、問題はないだろう。

 それでいい。

 理沙はそう思った。

     *

 しかし、そこで少し手が止まった。

 自分がこの現場へ来たのは、いつだっただろう。

 ロサンゼルスの交通管制センターを離れ、シアトルへ向かう飛行機に乗った。

 あのときは、新しい仕事が見つかったことが嬉しかった。

 知らない街で暮らすことも、少し楽しみだった。

 シアトルへ来てからは、ダグラスに次々と課題を与えられた。

 最初は、それに応えるだけで精一杯だった。

 やがて、自分で対応方針を考えられるようになった。

 新任の担当者へ、仕事を教えるようにもなった。

 現場の管理を任され、アトランタまで行った。

 そして、システムは完成した。

 今は、次の担当者へ資料を残そうとしている。

 理沙は、机の上に置いたスマートフォンを見た。

 そこには、先ほど保存した求人情報が残っていた。

 次の仕事。

 新しい現場。

 新しいシステム。

 また同じように、要件を確認し、設計し、実装する。

 問題が起きれば対応する。

 現場を整える。

 そして、仕事が終われば、また次の場所へ移る。

 そのときには、また引き継ぎ資料を作るのだろう。

 理沙は画面を見つめた。

「……」

 別に、嫌なわけではなかった。

 仕事そのものは面白い。

 新しい技術に触れることもできる。

 知らない土地へ行くのも、悪くない。

 何より、自分が積み重ねた経験が、次の仕事につながっている。

 それは、間違いなく嬉しいことだった。

 ただ。

 これを、この先もずっと繰り返していくのだろうか。

     *

 理沙は椅子から立ち上がった。

 窓際へ歩く。

 シアトルの街が見えた。

 夕方の日差しが、建物の壁を照らしている。

 遠くでは、道路を車が流れていた。

 一年前、ロサンゼルスの小さな部屋で天井を眺めながら、東京へ戻ろうかと考えた。

 今は、そんなことを考える必要はない。

 横浜の部屋は、まだ残してある。

 けれど、そこへ帰ろうという気持ちは、今のところなかった。

 では、これからどうするのか。

 ロサンゼルスか。

 テキサスか。

 東海岸か。

 理沙は窓の外を見つめた。

 どの街へ行っても、仕事はある。

 新しい人たちと出会い、新しい経験を積むこともできる。

 それでも。

 どこへ行くかだけでは、何かが足りないような気がした。

 理沙は、自分の席へ戻った。

     *

 机の上には、完成した引き継ぎ資料が表示されていた。

 理沙は最後の確認を行い、正式な保管先へ登録した。

 受付完了。

 画面に短い通知が表示された。

 これで、自分が担当してきた仕事の一部が、次の担当者へ引き継がれる。

 理沙はしばらく、その画面を眺めていた。

 仕事は終わる。

 けれど、システムは動き続ける。

 人が入れ替わっても、業務は続いていく。

 それは、これまで自分が何度も経験してきたことだった。

 そして、今回も同じだった。

 理沙は端末からログアウトした。

 バッグを持つ。

 椅子を元の位置へ戻す。

 帰り際、もう一度だけ自分の席を見た。

 明日も、ここで仕事をする。

 契約が終わるまでは、まだ少し時間がある。

 次の仕事についても、そろそろ考えなければならない。

 理沙はスマートフォンを手に取った。

 保存してある求人情報を開きかける。

 少し迷った。

 そして、そのまま画面を閉じた。

 今日は、もういいか。

 自分は、この先、何をしていきたいのだろう。

 答えは、まだなかった。

 理沙はバッグを肩へ掛け直し、静かにオフィスを後にした。

 シアトルの街には、夏の夕暮れが訪れようとしていた。



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