003_18_審査通過

 次期システム更改の計画が凍結されてから、オフィスの空気は少し変わった。

 仕事がなくなったわけではない。

 現行システムは動き続けている。

 監視も必要だった。

 障害が起きれば対応しなければならない。

 ただ、それまで机の上に積み上がっていた「次の仕事」が、きれいになくなった。

 新しい構成案。

 次期基盤の設計。

 試験計画。

 実装スケジュール。

 その多くが、保留という名前のフォルダへ移されていた。

     *

「俺、移ることにした」

 昼休み。

 同じチームで働いていた男が、食事をしながら言った。

「どこへ?」

「別の会社。同じような金融系」

「もう決まったの?」

「来月から」

「早いね」

「こういうときは早い方がいいだろ」

 男は肩をすくめた。

 理沙も笑った。

 言っていることは分かる。

 今回のチーム縮小は、誰の能力が足りなかったからでもない。

 ただ計画が止まった。

 なら、仕事がある場所へ移ればいい。

 理沙自身にも、すでにいくつか候補があった。

「リサは?」

 男が聞いた。

「まだ」

「ロサンゼルスのやつ?」

「それもある」

「テキサス?」

「それも」

「じゃあ、選び放題じゃん」

「まあね」

 理沙はそう答えた。

 少し前なら、その言葉は嬉しかったはずだった。

 今も嬉しくないわけではない。

 ただ、すぐにどれかへ応募しようという気持ちには、まだなれなかった。

     *

 午後。

 理沙はダグラスの席へ向かった。

「少しいいですか」

「いいぞ」

 ダグラスは画面から目を離した。

 理沙は近くの椅子へ座った。

「次の仕事を探そうと思ってます」

 ダグラスは驚かなかった。

「そうか」

「同じチームの人も、もう別の会社に移るみたいで」

「聞いている」

「私も、たぶんそうした方がいいと思ってます」

「それが普通だろうな」

 理沙は頷いた。

 そこで一度、言葉を止めた。

「ただ」

 ダグラスが理沙を見る。

「一か月だけ、ここに残れませんか」

「一か月?」

「はい」

「何のために?」

 理沙は少し考えてから答えた。

「ここでやったことを、ちゃんと残したいです」

 ダグラスは黙っていた。

「ドキュメントはあります。でも、作業手順だけじゃなくて」

 理沙は続けた。

「どういうときに、どこを見るのか。何を先に確認するのか。要件が変わったとき、どう整理したのか。アトランタで何が起きたのか」

「経験を残したい?」

「そうです」

「資料だけで?」

「後任の人へのレクチャーもやりたいです」

 ダグラスは椅子にもたれた。

 少し複雑そうな顔をした。

「君がそこまでやる必要はない」

「分かってます」

「契約が終われば、次へ行けばいい」

「それも分かってます」

 理沙は少し笑った。

「でも、一回やっておきたいんです」

「なぜ?」

 また、ダグラスらしい質問だった。

 理沙は少し考えた。

「次の人が、一から同じところでつまずかなくて済むようにしたいから」

 ダグラスは何も言わなかった。

「私も最初、何を見ればいいのか全然分からなかったので」

「それは覚えている」

「そこまで覚えてるんですか」

「かなり困った顔をしていた」

「……そうでしたっけ」

「そうだった」

 理沙は苦笑した。

 しばらく沈黙があった。

「一か月」

 ダグラスが言った。

「それ以上は保証できない」

「分かってます」

「給与も、その一か月までだ」

「はい」

「後任の教育内容は、最初に一覧で出してくれ」

「分かりました」

 ダグラスは頷いた。

「なら、やってみろ」

「ありがとうございます」

 理沙は立ち上がった。

「リサ」

「はい?」

「次の仕事探しも並行してやれ」

「もちろん」

「一か月後に困られても、こっちではどうにもできない」

「分かってます」

 理沙は少し笑った。

「そこは心配しないでください」

     *

 翌日から、理沙の仕事は少し変わった。

 システムを直接触る時間が減った。

 代わりに、過去の記録を開く時間が増えた。

 設計変更。

 障害対応。

 仕様変更。

 災害対策テスト。

 アトランタでの構築記録。

 一つずつ読み返す。

「……こんなのもあったな」

 自分でも忘れていたことが、いくつもあった。

 最初に対応したセキュリティ要件。

 ダグラスから、

 ――それを考えるのが君の仕事だ。

 と言われた日。

 要件を整理できず、何度もやり直した。

 今なら、同じ内容をもっと短い時間で整理できる。

 理沙は資料を開いたまま、少しだけ笑った。

     *

 後任になる予定の担当者が、数人ずつレクチャーへ参加するようになった。

 最初の日。

 理沙は画面にシステム全体の構成を表示した。

「これを全部覚える必要はありません」

 参加者の一人が少し安心した顔をした。

「ただし」

 理沙は続けた。

「どこで問題が起きたとき、どこを見ればいいかは覚えてください」

「例えば?」

「例えば、通信が遅いとき」

 理沙は構成図を指した。

「最初からサーバーを疑わない。ネットワークなのか、処理なのか、接続先なのか。順番に切り分ける」

「どの順番ですか?」

 質問された。

 理沙は答えかけて、少し止まった。

 以前なら、そのまま正解を言っていたかもしれない。

「何が一番大きな影響を出していると思います?」

 相手が画面を見る。

「通信?」

「なぜ?」

「複数の処理で同時に遅くなっているなら、個別サーバーより共通部分の可能性が高いから」

 理沙は頷いた。

「そういう考え方です」

「なるほど」

「順番そのものを暗記するより、なぜそこから見るのかを考えた方がいいです」

 話しながら、理沙は少し不思議な気分になった。

 それは、かつてダグラスから教えられたやり方だった。

 ただ、今は自分なりの言葉になっている。

     *

 レクチャーは、一回で終わらなかった。

 障害対応。

 要件変更。

 監視。

 外部部門との調整。

 アトランタで発生したような、予定外の問題への対処。

 理沙は、自分の経験を少しずつ資料へ落としていった。

 その作業を続けるうちに気づいたことがある。

 思っていたより、自分は多くのことを覚えていた。

 システムの設定値だけではない。

 誰に確認するべきか。

 どこまで自分で判断してよいのか。

 何を先に決めるべきか。

 何を後回しにしてもよいのか。

 そうしたものは、最初からマニュアルに書かれていたわけではなかった。

 仕事をしているうちに、身についたものだった。

 理沙は資料の見出しを一つ追加した。

 **判断するときに確認すること。**

 その下へ、いくつかの項目を書き始めた。

     *

 一方で、次の仕事も探していた。

 ロサンゼルス。

 テキサス。

 東海岸。

 条件のよい求人は残っている。

 面談を受けようと思えば、すぐにでも申し込めた。

 それでも、まだ決めなかった。

 今はこの一か月を終わらせたい。

 それからでも遅くない。

 そう思っていた。

     *

 ある日の夕方。

 仕事を終えてアパートへ戻った。

 エントランス脇の郵便受けを開ける。

 広告。

 請求書。

 通知。

 その奥に、一つだけ妙に厚い封筒が入っていた。

「……何これ」

 取り出す。

 白い封筒。

 しっかりした紙。

 送り元を見る。

 理沙の手が止まった。

 国防総省。

「……あ」

 思い出した。

 一か月以上前。

 休暇の初日に、コーヒーを飲みながら申し込んだ技術士官候補の事前審査。

 あれ以来、特に連絡はなかった。

 忙しい日々の中で、ほとんど忘れかけていた。

 理沙は封筒を持ったまま部屋へ戻った。

     *

 バッグを置く。

 上着を脱ぐ。

 いつもなら、まずシャワーを浴びる。

 今日は違った。

 理沙はそのままテーブルへ座った。

 封筒を置く。

 厚い。

 手に持ってみる。

「こんなに何が入ってるのよ」

 封を切った。

 中から、何枚もの書類と冊子が出てきた。

 最初の一枚。

 理沙は上から読み始めた。

 数行。

 そこで止まる。

「……通った?」

 もう一度読む。

 初期適格審査。

 通過。

 理沙は椅子へ背を預けた。

「ほんとに?」

 別に、難関を突破したわけではない。

 応募資格や経歴など、初期条件を満たしていることが確認されただけだ。

 それでも。

 スマートフォンから申し込んだ日の朝には、

 ――落ちたら、それまでか。

 くらいの気持ちで押した申請だった。

 その申請が、ちゃんと審査されていた。

 そして今、次の段階へ進むための書類が、目の前にある。

     *

 理沙は冊子を開いた。

 今後の選考手順。

 本審査書類の提出。

 経歴確認。

 適性評価。

 身体・体力条件。

 技術分野の確認。

 面談。

 最終審査。

 そのすべてを通過した場合に、技術士官学校への入学資格が与えられる。

「まだ先、長いな……」

 理沙はページをめくった。

 入学が決まったわけではない。

 むしろ、ここからが本当の審査らしかった。

 続いて、記入用紙を取り出す。

 厚い。

「……これ全部?」

 最初のページ。

 氏名。

 生年月日。

 国籍。

 出生地。

 現在の在留資格。

 国民登録番号。

 その次。

 家族構成。

 過去の居住地。

 学歴。

 職歴。

 国外での勤務歴。

 所属した組織。

 海外との継続的な関係。

 法令違反歴。

 安全保障上確認が必要となる活動や契約の有無。

 さらにページをめくる。

「……どこまで聞くの」

 理沙は少し呆れた。

 スマートフォンから申し込んだときとは、まるで違う。

 あのときは、基本的な経歴を入力するだけだった。

 今回は、自分の人生そのものを一覧にしろと言われているような気がした。

     *

 理沙はペンを取り、最初の数項目を書き始めた。

 氏名。

 生年月日。

 国籍。

 登録番号。

 そこで手が止まった。

 書類の注意事項を読む。

 提出内容は、公的な登録情報や各種記録と照合される場合がある。

 必要に応じて、追加資料の提出や確認面談を求める。

「まあ、そうだよね」

 軍士官。

 その言葉が、少しだけ重く感じられた。

 普通の転職とは違う。

 応募書類を出し、技術面談を受け、採用されれば終わりという話ではない。

 自分が誰なのか。

 どこで生きてきたのか。

 誰と関わってきたのか。

 その部分まで確認される。

 理沙はペンを置いた。

 まだ今夜全部を書く必要はない。

     *

 テーブルの上には、二種類の紙が置かれていた。

 一つ。

 今日、職場から持ち帰った後進向けのレクチャー資料。

 もう一つ。

 国防総省から届いた本審査用の書類。

 理沙は最初に、レクチャー資料を開いた。

 今日説明した箇所について、一部表現を直したかった。

 画面を開く。

 文章を修正する。

 判断手順の一つに、補足を加える。

 保存。

 次の項目。

 そこまで進めたところで、視線が横へ行った。

 分厚い封筒。

 理沙はまた資料へ戻った。

 数分後。

 再び封筒を見る。

「……気になるな」

 理沙は小さく呟いた。

 書類を取り出した。

     *

 本審査の案内を、もう一度読み直した。

 ここから書類審査が始まる。

 通過すれば面談。

 面談でも適性が認められれば、入学資格について最終判断が行われる。

 まだ、何も決まってはいない。

 今の職場での一か月も、まだ始まったばかりだった。

 後進へ伝えたいことも、たくさんある。

 次の仕事だって、探せばいくらでもある。

 その一方で。

 一か月以上前に軽い気持ちで開いた扉が、まだ閉じていなかった。

 むしろ、少しだけ先へ開いている。

 理沙は書類を見つめた。

「どうするかな……」

 答えは出なかった。

     *

 翌朝。

 理沙はいつもどおり職場へ向かった。

 後任の担当者たちが待っている。

 今日のテーマは、大規模障害時の判断だった。

「まず、システムが止まったとき」

 理沙は画面を指した。

「いきなり全部直そうとしないでください」

「じゃあ何から?」

「何が止まっていて、何が生きているか」

 理沙は答えた。

「そこからです」

 参加者がメモを取る。

 理沙は説明を続けた。

 昨日と同じ仕事。

 今まで覚えてきたことを、次の人へ渡す仕事。

 それは、まだ面白かった。

     *

 昼休み。

 理沙は一人で食事をしながら、スマートフォンを開いた。

 保存してある求人情報。

 ロサンゼルス。

 テキサス。

 東海岸。

 そのどれにも、まだ応募していない。

 少し迷ったあと、画面を閉じた。

 今度は、国防総省から届いた案内資料を撮影しておいたページを開く。

 本審査提出期限。

 まだ余裕はある。

 理沙は画面を見つめた。

 今の仕事を、きちんと終えたい。

 でも。

 目の前に来たこの話を、そのまま捨てる気にもなれなかった。

 それだけだった。

     *

 その夜。

 理沙はテーブルに座った。

 国防総省から届いた書類を広げる。

 ペンを手に取る。

 家族構成。

 学歴。

 過去の居住地。

 一つずつ書いていく。

 途中で止まる。

 記憶を確認する。

 また書く。

 すべてを終えるには、まだ時間がかかりそうだった。

 理沙は顔を上げた。

 テーブルの反対側には、レクチャー資料が置いてある。

 今いる場所。

 これから行くかもしれない場所。

 どちらも、まだ途中だった。

 理沙は少しだけ息を吐いた。

 そして、再び書類へ視線を落とした。

 興味半分で押した申請は、いつの間にか、自分の過去を一つずつ書き出すところまで来ていた。

 それでもまだ。

 理沙自身は、この先に何が待っているのかを知らなかった。



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