次期システム更改の計画が凍結されてから、オフィスの空気は少し変わった。
仕事がなくなったわけではない。
現行システムは動き続けている。
監視も必要だった。
障害が起きれば対応しなければならない。
ただ、それまで机の上に積み上がっていた「次の仕事」が、きれいになくなった。
新しい構成案。
次期基盤の設計。
試験計画。
実装スケジュール。
その多くが、保留という名前のフォルダへ移されていた。
*
「俺、移ることにした」
昼休み。
同じチームで働いていた男が、食事をしながら言った。
「どこへ?」
「別の会社。同じような金融系」
「もう決まったの?」
「来月から」
「早いね」
「こういうときは早い方がいいだろ」
男は肩をすくめた。
理沙も笑った。
言っていることは分かる。
今回のチーム縮小は、誰の能力が足りなかったからでもない。
ただ計画が止まった。
なら、仕事がある場所へ移ればいい。
理沙自身にも、すでにいくつか候補があった。
「リサは?」
男が聞いた。
「まだ」
「ロサンゼルスのやつ?」
「それもある」
「テキサス?」
「それも」
「じゃあ、選び放題じゃん」
「まあね」
理沙はそう答えた。
少し前なら、その言葉は嬉しかったはずだった。
今も嬉しくないわけではない。
ただ、すぐにどれかへ応募しようという気持ちには、まだなれなかった。
*
午後。
理沙はダグラスの席へ向かった。
「少しいいですか」
「いいぞ」
ダグラスは画面から目を離した。
理沙は近くの椅子へ座った。
「次の仕事を探そうと思ってます」
ダグラスは驚かなかった。
「そうか」
「同じチームの人も、もう別の会社に移るみたいで」
「聞いている」
「私も、たぶんそうした方がいいと思ってます」
「それが普通だろうな」
理沙は頷いた。
そこで一度、言葉を止めた。
「ただ」
ダグラスが理沙を見る。
「一か月だけ、ここに残れませんか」
「一か月?」
「はい」
「何のために?」
理沙は少し考えてから答えた。
「ここでやったことを、ちゃんと残したいです」
ダグラスは黙っていた。
「ドキュメントはあります。でも、作業手順だけじゃなくて」
理沙は続けた。
「どういうときに、どこを見るのか。何を先に確認するのか。要件が変わったとき、どう整理したのか。アトランタで何が起きたのか」
「経験を残したい?」
「そうです」
「資料だけで?」
「後任の人へのレクチャーもやりたいです」
ダグラスは椅子にもたれた。
少し複雑そうな顔をした。
「君がそこまでやる必要はない」
「分かってます」
「契約が終われば、次へ行けばいい」
「それも分かってます」
理沙は少し笑った。
「でも、一回やっておきたいんです」
「なぜ?」
また、ダグラスらしい質問だった。
理沙は少し考えた。
「次の人が、一から同じところでつまずかなくて済むようにしたいから」
ダグラスは何も言わなかった。
「私も最初、何を見ればいいのか全然分からなかったので」
「それは覚えている」
「そこまで覚えてるんですか」
「かなり困った顔をしていた」
「……そうでしたっけ」
「そうだった」
理沙は苦笑した。
しばらく沈黙があった。
「一か月」
ダグラスが言った。
「それ以上は保証できない」
「分かってます」
「給与も、その一か月までだ」
「はい」
「後任の教育内容は、最初に一覧で出してくれ」
「分かりました」
ダグラスは頷いた。
「なら、やってみろ」
「ありがとうございます」
理沙は立ち上がった。
「リサ」
「はい?」
「次の仕事探しも並行してやれ」
「もちろん」
「一か月後に困られても、こっちではどうにもできない」
「分かってます」
理沙は少し笑った。
「そこは心配しないでください」
*
翌日から、理沙の仕事は少し変わった。
システムを直接触る時間が減った。
代わりに、過去の記録を開く時間が増えた。
設計変更。
障害対応。
仕様変更。
災害対策テスト。
アトランタでの構築記録。
一つずつ読み返す。
「……こんなのもあったな」
自分でも忘れていたことが、いくつもあった。
最初に対応したセキュリティ要件。
ダグラスから、
――それを考えるのが君の仕事だ。
と言われた日。
要件を整理できず、何度もやり直した。
今なら、同じ内容をもっと短い時間で整理できる。
理沙は資料を開いたまま、少しだけ笑った。
*
後任になる予定の担当者が、数人ずつレクチャーへ参加するようになった。
最初の日。
理沙は画面にシステム全体の構成を表示した。
「これを全部覚える必要はありません」
参加者の一人が少し安心した顔をした。
「ただし」
理沙は続けた。
「どこで問題が起きたとき、どこを見ればいいかは覚えてください」
「例えば?」
「例えば、通信が遅いとき」
理沙は構成図を指した。
「最初からサーバーを疑わない。ネットワークなのか、処理なのか、接続先なのか。順番に切り分ける」
「どの順番ですか?」
質問された。
理沙は答えかけて、少し止まった。
以前なら、そのまま正解を言っていたかもしれない。
「何が一番大きな影響を出していると思います?」
相手が画面を見る。
「通信?」
「なぜ?」
「複数の処理で同時に遅くなっているなら、個別サーバーより共通部分の可能性が高いから」
理沙は頷いた。
「そういう考え方です」
「なるほど」
「順番そのものを暗記するより、なぜそこから見るのかを考えた方がいいです」
話しながら、理沙は少し不思議な気分になった。
それは、かつてダグラスから教えられたやり方だった。
ただ、今は自分なりの言葉になっている。
*
レクチャーは、一回で終わらなかった。
障害対応。
要件変更。
監視。
外部部門との調整。
アトランタで発生したような、予定外の問題への対処。
理沙は、自分の経験を少しずつ資料へ落としていった。
その作業を続けるうちに気づいたことがある。
思っていたより、自分は多くのことを覚えていた。
システムの設定値だけではない。
誰に確認するべきか。
どこまで自分で判断してよいのか。
何を先に決めるべきか。
何を後回しにしてもよいのか。
そうしたものは、最初からマニュアルに書かれていたわけではなかった。
仕事をしているうちに、身についたものだった。
理沙は資料の見出しを一つ追加した。
**判断するときに確認すること。**
その下へ、いくつかの項目を書き始めた。
*
一方で、次の仕事も探していた。
ロサンゼルス。
テキサス。
東海岸。
条件のよい求人は残っている。
面談を受けようと思えば、すぐにでも申し込めた。
それでも、まだ決めなかった。
今はこの一か月を終わらせたい。
それからでも遅くない。
そう思っていた。
*
ある日の夕方。
仕事を終えてアパートへ戻った。
エントランス脇の郵便受けを開ける。
広告。
請求書。
通知。
その奥に、一つだけ妙に厚い封筒が入っていた。
「……何これ」
取り出す。
白い封筒。
しっかりした紙。
送り元を見る。
理沙の手が止まった。
国防総省。
「……あ」
思い出した。
一か月以上前。
休暇の初日に、コーヒーを飲みながら申し込んだ技術士官候補の事前審査。
あれ以来、特に連絡はなかった。
忙しい日々の中で、ほとんど忘れかけていた。
理沙は封筒を持ったまま部屋へ戻った。
*
バッグを置く。
上着を脱ぐ。
いつもなら、まずシャワーを浴びる。
今日は違った。
理沙はそのままテーブルへ座った。
封筒を置く。
厚い。
手に持ってみる。
「こんなに何が入ってるのよ」
封を切った。
中から、何枚もの書類と冊子が出てきた。
最初の一枚。
理沙は上から読み始めた。
数行。
そこで止まる。
「……通った?」
もう一度読む。
初期適格審査。
通過。
理沙は椅子へ背を預けた。
「ほんとに?」
別に、難関を突破したわけではない。
応募資格や経歴など、初期条件を満たしていることが確認されただけだ。
それでも。
スマートフォンから申し込んだ日の朝には、
――落ちたら、それまでか。
くらいの気持ちで押した申請だった。
その申請が、ちゃんと審査されていた。
そして今、次の段階へ進むための書類が、目の前にある。
*
理沙は冊子を開いた。
今後の選考手順。
本審査書類の提出。
経歴確認。
適性評価。
身体・体力条件。
技術分野の確認。
面談。
最終審査。
そのすべてを通過した場合に、技術士官学校への入学資格が与えられる。
「まだ先、長いな……」
理沙はページをめくった。
入学が決まったわけではない。
むしろ、ここからが本当の審査らしかった。
続いて、記入用紙を取り出す。
厚い。
「……これ全部?」
最初のページ。
氏名。
生年月日。
国籍。
出生地。
現在の在留資格。
国民登録番号。
その次。
家族構成。
過去の居住地。
学歴。
職歴。
国外での勤務歴。
所属した組織。
海外との継続的な関係。
法令違反歴。
安全保障上確認が必要となる活動や契約の有無。
さらにページをめくる。
「……どこまで聞くの」
理沙は少し呆れた。
スマートフォンから申し込んだときとは、まるで違う。
あのときは、基本的な経歴を入力するだけだった。
今回は、自分の人生そのものを一覧にしろと言われているような気がした。
*
理沙はペンを取り、最初の数項目を書き始めた。
氏名。
生年月日。
国籍。
登録番号。
そこで手が止まった。
書類の注意事項を読む。
提出内容は、公的な登録情報や各種記録と照合される場合がある。
必要に応じて、追加資料の提出や確認面談を求める。
「まあ、そうだよね」
軍士官。
その言葉が、少しだけ重く感じられた。
普通の転職とは違う。
応募書類を出し、技術面談を受け、採用されれば終わりという話ではない。
自分が誰なのか。
どこで生きてきたのか。
誰と関わってきたのか。
その部分まで確認される。
理沙はペンを置いた。
まだ今夜全部を書く必要はない。
*
テーブルの上には、二種類の紙が置かれていた。
一つ。
今日、職場から持ち帰った後進向けのレクチャー資料。
もう一つ。
国防総省から届いた本審査用の書類。
理沙は最初に、レクチャー資料を開いた。
今日説明した箇所について、一部表現を直したかった。
画面を開く。
文章を修正する。
判断手順の一つに、補足を加える。
保存。
次の項目。
そこまで進めたところで、視線が横へ行った。
分厚い封筒。
理沙はまた資料へ戻った。
数分後。
再び封筒を見る。
「……気になるな」
理沙は小さく呟いた。
書類を取り出した。
*
本審査の案内を、もう一度読み直した。
ここから書類審査が始まる。
通過すれば面談。
面談でも適性が認められれば、入学資格について最終判断が行われる。
まだ、何も決まってはいない。
今の職場での一か月も、まだ始まったばかりだった。
後進へ伝えたいことも、たくさんある。
次の仕事だって、探せばいくらでもある。
その一方で。
一か月以上前に軽い気持ちで開いた扉が、まだ閉じていなかった。
むしろ、少しだけ先へ開いている。
理沙は書類を見つめた。
「どうするかな……」
答えは出なかった。
*
翌朝。
理沙はいつもどおり職場へ向かった。
後任の担当者たちが待っている。
今日のテーマは、大規模障害時の判断だった。
「まず、システムが止まったとき」
理沙は画面を指した。
「いきなり全部直そうとしないでください」
「じゃあ何から?」
「何が止まっていて、何が生きているか」
理沙は答えた。
「そこからです」
参加者がメモを取る。
理沙は説明を続けた。
昨日と同じ仕事。
今まで覚えてきたことを、次の人へ渡す仕事。
それは、まだ面白かった。
*
昼休み。
理沙は一人で食事をしながら、スマートフォンを開いた。
保存してある求人情報。
ロサンゼルス。
テキサス。
東海岸。
そのどれにも、まだ応募していない。
少し迷ったあと、画面を閉じた。
今度は、国防総省から届いた案内資料を撮影しておいたページを開く。
本審査提出期限。
まだ余裕はある。
理沙は画面を見つめた。
今の仕事を、きちんと終えたい。
でも。
目の前に来たこの話を、そのまま捨てる気にもなれなかった。
それだけだった。
*
その夜。
理沙はテーブルに座った。
国防総省から届いた書類を広げる。
ペンを手に取る。
家族構成。
学歴。
過去の居住地。
一つずつ書いていく。
途中で止まる。
記憶を確認する。
また書く。
すべてを終えるには、まだ時間がかかりそうだった。
理沙は顔を上げた。
テーブルの反対側には、レクチャー資料が置いてある。
今いる場所。
これから行くかもしれない場所。
どちらも、まだ途中だった。
理沙は少しだけ息を吐いた。
そして、再び書類へ視線を落とした。
興味半分で押した申請は、いつの間にか、自分の過去を一つずつ書き出すところまで来ていた。
それでもまだ。
理沙自身は、この先に何が待っているのかを知らなかった。
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