まだ、完全には夜が明けていなかった。
空の東側だけが、わずかに白み始めている。
理沙はアパートのドアを閉め、軽く肩を回した。
腕時計を見る。
午前5時40分。
「……行くか」
小さく呟いて、走り始めた。
*
最初の数分は、ゆっくりだった。
住宅地を抜ける。
幹線道路へ出る。
道路沿いの歩道は平坦で、早朝のせいか人も少ない。
車はすでに何台も走っていた。
理沙は一定の速度を保ちながら、前だけを見る。
呼吸。
足音。
腕の振り。
それだけを意識する。
少し前までは、このあたりまで来るだけで息が上がっていた。
今はまだ余裕がある。
交差点を渡る。
その先から、緩い坂が始まる。
理沙は速度を少し落とした。
「ここなんだよね……」
上り坂。
三週間前は、この坂で完全に足が止まった。
走り始めて十分も経っていなかったのに、肺が痛くなるほど息を切らして、最後は歩いた。
翌日には腿が重く、ベッドから起きた瞬間に後悔した。
なんでこんなことを始めたのだろう。
本当に士官学校へ行けるかどうかも分からないのに。
そう思った。
それでも翌々日には、また外へ出た。
歩いてもいいから続けようと思った。
それが三週間前だった。
*
今朝は、坂の途中でも止まらなかった。
速度は遅い。
それでも走っている。
頂上まで来たところで、理沙は大きく息を吐いた。
「……よし」
すぐに下り坂へ入る。
脚への衝撃を抑えながら、ゆっくり降りる。
その先に、小さな公園があった。
まだ誰もいない。
芝生には朝露が残っている。
理沙は歩きながら呼吸を整えた。
ベンチの近くまで来る。
腕を伸ばす。
肩。
腰。
腿。
ふくらはぎ。
一つずつ、ゆっくり伸ばしていく。
身体が温まっていた。
気持ちがよかった。
ここから自宅までは、少しペースを落として走る。
帰宅するころには、以前なら起き始める時刻になる。
理沙は腕時計を確認した。
「予定どおり」
少しだけ満足した。
*
アパートへ戻る。
シャワーを浴びる。
着替える。
朝食を作る。
パン。
卵。
果物。
コーヒー。
以前なら、その時間にようやく目を覚ましていた。
今はすでにひと仕事終えたような気分だった。
理沙は食事をしながら、今日の予定を確認した。
後任者へのレクチャー。
障害対応の続き。
午後は、過去の設計変更についての説明。
今の仕事を始めてから三週間。
正確には、後進への引き継ぎを始めてから三週間だった。
契約期間は、あと一週間少々。
その先の仕事は、まだ決めていない。
求人情報は届いている。
条件のよいものもある。
それでも、今は応募していなかった。
まず、この一か月を終わらせる。
そう決めていた。
*
「じゃあ、このケース」
午前中。
理沙は後任者たちの前で、障害発生時の記録を表示していた。
「監視画面では、通信遅延が最初に出ています」
参加者たちが画面を見る。
「ただし、本当の原因はそこじゃありませんでした」
「サーバーですか?」
一人が聞いた。
「どう思います?」
理沙は答えなかった。
以前なら、自分から説明していたかもしれない。
今は待つ。
相手が考える時間を置く。
「通信遅延が複数拠点で同時に出てるから……」
別の一人が言った。
「共通する経路?」
「そこから見るのはありですね」
「じゃあ、通信経路の先?」
「確認してみて」
担当者が過去ログを開く。
画面を追う。
「あ」
しばらくして、一人が声を上げた。
「認証処理の方が先に遅くなってる」
理沙は頷いた。
「そう」
「通信障害に見えたけど、原因は別だったんですね」
「だから、最初のアラームだけで決めつけない」
理沙は画面を閉じた。
「何が起きたかじゃなくて、何から起きたかを見る」
何人かがメモを取った。
理沙はその様子を眺めた。
三週間前なら、もっと質問が多かった。
今は、理沙が答える前に自分たちで調べ始める。
その姿を見ると、少し安心した。
*
昼休み。
理沙は一人で食事をしていた。
スマートフォンを開く。
求人情報の通知がいくつか届いている。
ロサンゼルス。
テキサス。
東海岸。
条件を確認する。
そのまま閉じた。
「まだいいか」
焦る必要はない。
一年前なら、とてもそんなことは言えなかった。
仕事が一つ途切れれば、次が見つかるかどうか不安だった。
今は違う。
次の仕事は、おそらく見つかる。
だからこそ、今やっていることを途中で放り出したくなかった。
理沙は残っていた飲み物を飲んだ。
*
帰宅すると、今度は別のトレーニングが待っていた。
夕食を済ませる。
少し休む。
それから、部屋の隅へ置いてある簡単な器具を引っ張り出す。
折り畳み式のベンチ。
負荷を変えられる小型のトレーニング器具。
マット。
「さて……」
理沙は髪をまとめた。
腕。
肩。
背中。
脚。
腹部。
無理をしすぎない程度に、順番に身体を動かす。
最初の一週間は、翌日の筋肉痛がひどかった。
早朝のランニングと夜の筋力トレーニング。
どちらも一度に始めたのは、少しやりすぎだったかもしれない。
それでも、少しずつ負荷を調整した。
走れない日は歩いた。
疲れている日は回数を減らした。
眠い日は、さっさと寝た。
三週間が過ぎるころには、その生活にも身体が慣れてきていた。
トレーニングを終える。
シャワーを浴びる。
少しだけニュースを見る。
そしてベッドへ入る。
以前なら、そこからスマートフォンを触っていた。
今は数分もすれば眠くなる。
「健康的だなあ……」
自分でも少しおかしかった。
*
この生活を始めたのは、本審査用の書類を提出した日だった。
三週間前。
すべての項目を埋め、必要な資料をそろえ、封筒を返送した。
投函したあと。
アパートへ戻る途中で、ふと思った。
もし、審査に通ったら。
その先には士官学校がある。
軍隊。
理沙の人生には、ほとんど縁のなかった世界だった。
*
その日の夜。
理沙はベッドに横になりながら、勝手にその生活を想像した。
朝は早い。
たぶん。
起床ラッパが鳴る。
本当に今でもラッパなのかは知らない。
とにかく、ものすごく早く起こされる。
外へ出る。
走る。
体力トレーニング。
朝食。
午前中は授業。
昼間は軍事訓練。
午後も授業。
夜は予習。
「……休む時間あるの?」
自分で想像して、自分で嫌になった。
それでも。
士官学校というくらいだから、楽ではないだろう。
システム技術だけできればよいという場所でもないはずだった。
募集要項にも、体力審査の項目があった。
理沙は自分の身体を見た。
これまで、特別なトレーニングをしてきたわけではない。
仕事で重い機材を運んだことはある。
夜勤にも耐えた。
アトランタでは、何週間も長時間勤務を続けた。
だからといって、それと軍人として求められる体力が同じとは限らない。
「……やっとくか」
それだけだった。
翌朝。
理沙は、いつもより一時間早く起きた。
*
まだ、審査を通過したわけではない。
書類の内容に問題があれば、そこで終わる。
面談へ進めない可能性だってある。
体力トレーニングそのものが、全部無駄になるかもしれない。
それでも、不思議と理沙は途中でやめようとは思わなかった。
自分は合格する。
そう確信しているわけではなかった。
ただ。
ロサンゼルスへ来たばかりのころの自分なら、募集要項を見ただけで、
――無理じゃない?
と思ったかもしれない。
今は違った。
交通管制センターの夜勤をやった。
シアトルでダグラスに何度もやり直しを命じられた。
アトランタでは、突然現地へ送り込まれた。
何とか全部、終わらせた。
なら。
やってみる前から無理だと決める必要はない。
そう思えるようになっていた。
*
それから数日。
レクチャーは、さらに終盤へ入った。
理沙が説明する時間は減っていた。
代わりに、後任者たち自身が進行する。
「まず影響範囲を確認します」
「そのあと?」
「切り戻し条件」
「理由は?」
「失敗したときに戻せない変更は、先に入れない方がいいからです」
「そうですね」
理沙は頷いた。
それだけで済む。
午後の演習では、一度も理沙が手を出さずに問題を解決した。
「終わりました」
担当者が言う。
理沙は結果を確認した。
「問題なし」
画面を閉じる。
「もう、私いらないんじゃない?」
半分冗談で言った。
「まだいてください」
すぐに返された。
理沙は笑った。
「あと少しね」
契約終了まで、残り三日。
*
翌朝。
理沙は目覚ましが鳴る前に目を開けた。
時計を見る。
いつもの時刻だった。
「……身体って、覚えるんだ」
目覚ましを解除する。
起きる。
水を飲む。
着替える。
外へ出た。
まだ夜明け前だった。
しかし、数週間前より日の出が遅くなっている。
夏の終わり。
空気は相変わらず湿っていた。
外へ出た瞬間、肌にじっとりまとわりつく。
「暑……」
それでも走り始める。
いつもの道。
いつもの幹線道路。
いつもの坂。
最初のころは苦しかった坂も、今は呼吸を乱さずに登れるようになっていた。
頂上へ出る。
少し速度を上げる。
公園まで走る。
*
誰もいない公園。
理沙は歩きながら呼吸を整えた。
空の色が少しずつ変わり始めている。
夏の空だった。
けれど。
風の中に、ほんの少しだけ冷たいものが混ざっていた。
「秋か……」
立ち止まる。
腕を伸ばす。
肩を回す。
身体を横へ倒す。
次に腿を伸ばそうとしたとき。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
短い通知音。
「こんな時間に?」
理沙は動きを止めた。
職探しエージェントだろうか。
時差のある会社から、自動配信された求人かもしれない。
放っておこうとも思った。
それでも、何となく気になった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面を点灯させた。
新しいメッセージが一件。
理沙は送り主の名前を見た。
「……え?」
身体が止まった。
もう一度、画面を見る。
見間違いではなかった。
そこには、久しく見ていなかった名前が表示されていた。
**小川美奈**
理沙は、夜明け前の公園で、しばらくその名前を見つめていた。
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