003_19_体力トレーニング

 まだ、完全には夜が明けていなかった。

 空の東側だけが、わずかに白み始めている。

 理沙はアパートのドアを閉め、軽く肩を回した。

 腕時計を見る。

 午前5時40分。

「……行くか」

 小さく呟いて、走り始めた。

     *

 最初の数分は、ゆっくりだった。

 住宅地を抜ける。

 幹線道路へ出る。

 道路沿いの歩道は平坦で、早朝のせいか人も少ない。

 車はすでに何台も走っていた。

 理沙は一定の速度を保ちながら、前だけを見る。

 呼吸。

 足音。

 腕の振り。

 それだけを意識する。

 少し前までは、このあたりまで来るだけで息が上がっていた。

 今はまだ余裕がある。

 交差点を渡る。

 その先から、緩い坂が始まる。

 理沙は速度を少し落とした。

「ここなんだよね……」

 上り坂。

 三週間前は、この坂で完全に足が止まった。

 走り始めて十分も経っていなかったのに、肺が痛くなるほど息を切らして、最後は歩いた。

 翌日には腿が重く、ベッドから起きた瞬間に後悔した。

 なんでこんなことを始めたのだろう。

 本当に士官学校へ行けるかどうかも分からないのに。

 そう思った。

 それでも翌々日には、また外へ出た。

 歩いてもいいから続けようと思った。

 それが三週間前だった。

     *

 今朝は、坂の途中でも止まらなかった。

 速度は遅い。

 それでも走っている。

 頂上まで来たところで、理沙は大きく息を吐いた。

「……よし」

 すぐに下り坂へ入る。

 脚への衝撃を抑えながら、ゆっくり降りる。

 その先に、小さな公園があった。

 まだ誰もいない。

 芝生には朝露が残っている。

 理沙は歩きながら呼吸を整えた。

 ベンチの近くまで来る。

 腕を伸ばす。

 肩。

 腰。

 腿。

 ふくらはぎ。

 一つずつ、ゆっくり伸ばしていく。

 身体が温まっていた。

 気持ちがよかった。

 ここから自宅までは、少しペースを落として走る。

 帰宅するころには、以前なら起き始める時刻になる。

 理沙は腕時計を確認した。

「予定どおり」

 少しだけ満足した。

     *

 アパートへ戻る。

 シャワーを浴びる。

 着替える。

 朝食を作る。

 パン。

 卵。

 果物。

 コーヒー。

 以前なら、その時間にようやく目を覚ましていた。

 今はすでにひと仕事終えたような気分だった。

 理沙は食事をしながら、今日の予定を確認した。

 後任者へのレクチャー。

 障害対応の続き。

 午後は、過去の設計変更についての説明。

 今の仕事を始めてから三週間。

 正確には、後進への引き継ぎを始めてから三週間だった。

 契約期間は、あと一週間少々。

 その先の仕事は、まだ決めていない。

 求人情報は届いている。

 条件のよいものもある。

 それでも、今は応募していなかった。

 まず、この一か月を終わらせる。

 そう決めていた。

     *

「じゃあ、このケース」

 午前中。

 理沙は後任者たちの前で、障害発生時の記録を表示していた。

「監視画面では、通信遅延が最初に出ています」

 参加者たちが画面を見る。

「ただし、本当の原因はそこじゃありませんでした」

「サーバーですか?」

 一人が聞いた。

「どう思います?」

 理沙は答えなかった。

 以前なら、自分から説明していたかもしれない。

 今は待つ。

 相手が考える時間を置く。

「通信遅延が複数拠点で同時に出てるから……」

 別の一人が言った。

「共通する経路?」

「そこから見るのはありですね」

「じゃあ、通信経路の先?」

「確認してみて」

 担当者が過去ログを開く。

 画面を追う。

「あ」

 しばらくして、一人が声を上げた。

「認証処理の方が先に遅くなってる」

 理沙は頷いた。

「そう」

「通信障害に見えたけど、原因は別だったんですね」

「だから、最初のアラームだけで決めつけない」

 理沙は画面を閉じた。

「何が起きたかじゃなくて、何から起きたかを見る」

 何人かがメモを取った。

 理沙はその様子を眺めた。

 三週間前なら、もっと質問が多かった。

 今は、理沙が答える前に自分たちで調べ始める。

 その姿を見ると、少し安心した。

     *

 昼休み。

 理沙は一人で食事をしていた。

 スマートフォンを開く。

 求人情報の通知がいくつか届いている。

 ロサンゼルス。

 テキサス。

 東海岸。

 条件を確認する。

 そのまま閉じた。

「まだいいか」

 焦る必要はない。

 一年前なら、とてもそんなことは言えなかった。

 仕事が一つ途切れれば、次が見つかるかどうか不安だった。

 今は違う。

 次の仕事は、おそらく見つかる。

 だからこそ、今やっていることを途中で放り出したくなかった。

 理沙は残っていた飲み物を飲んだ。

     *

 帰宅すると、今度は別のトレーニングが待っていた。

 夕食を済ませる。

 少し休む。

 それから、部屋の隅へ置いてある簡単な器具を引っ張り出す。

 折り畳み式のベンチ。

 負荷を変えられる小型のトレーニング器具。

 マット。

「さて……」

 理沙は髪をまとめた。

 腕。

 肩。

 背中。

 脚。

 腹部。

 無理をしすぎない程度に、順番に身体を動かす。

 最初の一週間は、翌日の筋肉痛がひどかった。

 早朝のランニングと夜の筋力トレーニング。

 どちらも一度に始めたのは、少しやりすぎだったかもしれない。

 それでも、少しずつ負荷を調整した。

 走れない日は歩いた。

 疲れている日は回数を減らした。

 眠い日は、さっさと寝た。

 三週間が過ぎるころには、その生活にも身体が慣れてきていた。

 トレーニングを終える。

 シャワーを浴びる。

 少しだけニュースを見る。

 そしてベッドへ入る。

 以前なら、そこからスマートフォンを触っていた。

 今は数分もすれば眠くなる。

「健康的だなあ……」

 自分でも少しおかしかった。

     *

 この生活を始めたのは、本審査用の書類を提出した日だった。

 三週間前。

 すべての項目を埋め、必要な資料をそろえ、封筒を返送した。

 投函したあと。

 アパートへ戻る途中で、ふと思った。

 もし、審査に通ったら。

 その先には士官学校がある。

 軍隊。

 理沙の人生には、ほとんど縁のなかった世界だった。

     *

 その日の夜。

 理沙はベッドに横になりながら、勝手にその生活を想像した。

 朝は早い。

 たぶん。

 起床ラッパが鳴る。

 本当に今でもラッパなのかは知らない。

 とにかく、ものすごく早く起こされる。

 外へ出る。

 走る。

 体力トレーニング。

 朝食。

 午前中は授業。

 昼間は軍事訓練。

 午後も授業。

 夜は予習。

「……休む時間あるの?」

 自分で想像して、自分で嫌になった。

 それでも。

 士官学校というくらいだから、楽ではないだろう。

 システム技術だけできればよいという場所でもないはずだった。

 募集要項にも、体力審査の項目があった。

 理沙は自分の身体を見た。

 これまで、特別なトレーニングをしてきたわけではない。

 仕事で重い機材を運んだことはある。

 夜勤にも耐えた。

 アトランタでは、何週間も長時間勤務を続けた。

 だからといって、それと軍人として求められる体力が同じとは限らない。

「……やっとくか」

 それだけだった。

 翌朝。

 理沙は、いつもより一時間早く起きた。

     *

 まだ、審査を通過したわけではない。

 書類の内容に問題があれば、そこで終わる。

 面談へ進めない可能性だってある。

 体力トレーニングそのものが、全部無駄になるかもしれない。

 それでも、不思議と理沙は途中でやめようとは思わなかった。

 自分は合格する。

 そう確信しているわけではなかった。

 ただ。

 ロサンゼルスへ来たばかりのころの自分なら、募集要項を見ただけで、

 ――無理じゃない?

 と思ったかもしれない。

 今は違った。

 交通管制センターの夜勤をやった。

 シアトルでダグラスに何度もやり直しを命じられた。

 アトランタでは、突然現地へ送り込まれた。

 何とか全部、終わらせた。

 なら。

 やってみる前から無理だと決める必要はない。

 そう思えるようになっていた。

     *

 それから数日。

 レクチャーは、さらに終盤へ入った。

 理沙が説明する時間は減っていた。

 代わりに、後任者たち自身が進行する。

「まず影響範囲を確認します」

「そのあと?」

「切り戻し条件」

「理由は?」

「失敗したときに戻せない変更は、先に入れない方がいいからです」

「そうですね」

 理沙は頷いた。

 それだけで済む。

 午後の演習では、一度も理沙が手を出さずに問題を解決した。

「終わりました」

 担当者が言う。

 理沙は結果を確認した。

「問題なし」

 画面を閉じる。

「もう、私いらないんじゃない?」

 半分冗談で言った。

「まだいてください」

 すぐに返された。

 理沙は笑った。

「あと少しね」

 契約終了まで、残り三日。

     *

 翌朝。

 理沙は目覚ましが鳴る前に目を開けた。

 時計を見る。

 いつもの時刻だった。

「……身体って、覚えるんだ」

 目覚ましを解除する。

 起きる。

 水を飲む。

 着替える。

 外へ出た。

 まだ夜明け前だった。

 しかし、数週間前より日の出が遅くなっている。

 夏の終わり。

 空気は相変わらず湿っていた。

 外へ出た瞬間、肌にじっとりまとわりつく。

「暑……」

 それでも走り始める。

 いつもの道。

 いつもの幹線道路。

 いつもの坂。

 最初のころは苦しかった坂も、今は呼吸を乱さずに登れるようになっていた。

 頂上へ出る。

 少し速度を上げる。

 公園まで走る。

     *

 誰もいない公園。

 理沙は歩きながら呼吸を整えた。

 空の色が少しずつ変わり始めている。

 夏の空だった。

 けれど。

 風の中に、ほんの少しだけ冷たいものが混ざっていた。

「秋か……」

 立ち止まる。

 腕を伸ばす。

 肩を回す。

 身体を横へ倒す。

 次に腿を伸ばそうとしたとき。

 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

 短い通知音。

「こんな時間に?」

 理沙は動きを止めた。

 職探しエージェントだろうか。

 時差のある会社から、自動配信された求人かもしれない。

 放っておこうとも思った。

 それでも、何となく気になった。

 ポケットからスマートフォンを取り出す。

 画面を点灯させた。

 新しいメッセージが一件。

 理沙は送り主の名前を見た。

「……え?」

 身体が止まった。

 もう一度、画面を見る。

 見間違いではなかった。

 そこには、久しく見ていなかった名前が表示されていた。

 **小川美奈**

 理沙は、夜明け前の公園で、しばらくその名前を見つめていた。



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