公園でスマートフォンの画面を見たまま、理沙はしばらく動かなかった。
表示されている名前は、間違いなく小川美奈だった。
メッセージを開く。
久しぶり、という短い挨拶のあとに、来週末、仕事の都合でシアトルへ行くことになった、と書かれていた。
最後に、
――もし時間があったら、久しぶりに会わない?
とある。
「……会うか」
声に出してみる。
断る理由はなかった。
むしろ、いつかはもう一度会いたいと思っていた。
それなのに、すぐには返信できなかった。
理沙はベンチへ座り、まだ薄暗い公園を眺めた。
一年前。
歌うことをやめた。
メジャーデビューの話も断った。
誰にもきちんと説明できないまま、日本を離れた。
そのころの自分を知っている人間の一人が、小川だった。
責められたことはない。
怒られたこともない。
だからこそ、少しだけ会いづらかった。
数分してから、理沙は画面へ視線を戻した。
返信を書く。
――もちろん。会いましょう。
送信。
続けて、待ち合わせの場所を考えた。
静かに話せるところ。
あまり堅苦しくないところ。
何度か行ったことのあるショットバーが頭に浮かんだ。
――その通りを行った先に、「Heaven」という私の行きつけのショットバーがあります。
地図を添付して送った。
およそ30分後、小川から返信が届いた。
――分かりました。来週末にシアトルへ行きます。空港に着いたら連絡しますね。
理沙は画面を閉じた。
それから立ち上がり、残っていたストレッチを続けた。
いつもの朝だった。
ただ、少しだけ違っていた。
*
一週間が過ぎた。
理沙は、正式には仕事を辞めていた。
最後のレクチャーを終え、後任者たちへ資料を渡し、ダグラスや同僚たちにも挨拶を済ませた。
自分がいなくても、システムは動いている。
それでよかった。
次の仕事を探そうと思えば、いくつか候補はあった。
職探しエージェントからは、今でも毎日のように通知が届く。
けれど、今のところ理沙はどこにも応募していなかった。
技術士官学校の本審査。
その結果を待っていた。
期限を決めていた。
あと三週間。
それまでに何も連絡がなければ、次の仕事を決める。
その程度の待ち時間なら、今の貯金で困ることはない。
とはいえ、朝から晩まで何もしない生活も性に合わなかった。
昼間だけ、近所の飲食店で短期の仕事を始めた。
給料が必要でないわけではない。
ただ、それ以上に生活のリズムを崩したくなかった。
朝は走る。
昼は働く。
夜は筋力トレーニングをする。
食事をして、シャワーを浴び、早めに寝る。
仕事を辞めたというのに、以前より規則正しい生活になっていた。
*
小川が来る前日の夕方。
短期の仕事を終えた理沙は、買い物を済ませて自宅へ向かっていた。
スマートフォンが鳴る。
小川からだった。
――あすのお昼に、シアトルに着く便に乗りました。
理沙は立ち止まった。
短い文章を二度読む。
「明日か……」
一週間前から分かっていたことだった。
それなのに、急に現実味が増した。
明日の夜には、小川と向かい合って座っている。
何を話すのだろう。
今の仕事。
アメリカへ来てからのこと。
ロサンゼルス。
シアトル。
これからのこと。
たぶん、そんな話になる。
そして。
あのころのことも。
理沙は歩き始めた。
夕暮れのシアトル。
高い建物の間から、傾いた光が差している。
別に、何もやましいことはない。
小川は、自分の才能を見つけてくれた。
メジャーデビューの機会まで作ろうとしてくれた。
理沙がそれを断ったあとも、関係を切らなかった。
時々連絡をくれた。
無理に歌へ戻そうともしなかった。
むしろ、ありがたい人だった。
だから、緊張する理由などない。
そう思う。
それでも落ち着かなかった。
「……何聞かれるんだろ」
独り言が出た。
自分が歌をやめた理由。
どうして突然アメリカへ来たのか。
後悔しているのか。
また歌いたいと思うことはないのか。
小川がそんなことを聞くとは限らない。
むしろ、聞かない可能性の方が高い。
それでも。
小川に会えば、あのころの自分まで一緒に目の前へ出てきそうな気がした。
*
翌日。
理沙はいつもどおり早朝に走った。
いつもの公園。
いつもの坂。
少し汗をかいて帰宅し、シャワーを浴びる。
昼前から短期の仕事へ入った。
昼過ぎ。
休憩に入ったところでスマートフォンを見る。
小川からメッセージが届いていた。
――今、空港に着きました。
「来たか」
理沙はすぐに返信した。
ホテルへの移動時間を確認し、夜の待ち合わせ時刻を決める。
19時半。
Heaven。
画面を閉じる。
休憩を終えて仕事へ戻った。
ところが、その日の午後は妙に時計を見る回数が多かった。
「リサ、何かあるの?」
同じ店で働いていた女性に聞かれた。
「友達と会うだけ」
「デート?」
「違う」
即答した。
相手が笑う。
「じゃあ、そんなに時間気にしなくてもいいじゃない」
「そうなんだけどね」
理沙も笑った。
自分でもそう思う。
料理を運ぶ。
テーブルを片づける。
会計をする。
普段と同じ仕事をしているのに、気づけば頭の隅で別のことを考えている。
何を話そう。
何から話そう。
考えても答えは出なかった。
*
19時少し前。
理沙は一度自宅へ戻った。
シャワーを浴び、着替えた。
鏡を見る。
仕事帰りのままでもよかった。
それなのに、少しだけ服を選んだ。
「……何やってんだろ」
苦笑する。
誰かに見せるためではない。
ただ、一年ぶりに会う。
それだけだった。
*
Heavenへ着いたのは、約束より20分ほど早かった。
地下へ続く階段を降りる。
重い扉を開ける。
店の中は、いつもどおり薄暗かった。
カウンターの奥には柔らかな照明。
棚に並ぶ瓶が、その光を静かに反射している。
まだ客は多くない。
理沙はカウンターの端へ座った。
「いつもの?」
顔を覚えているバーテンダーが聞いた。
「今日は軽いやつ」
「待ち合わせ?」
「うん」
「珍しいね」
「そう?」
「だいたい一人じゃん」
「ほっといて」
理沙は笑った。
薄めの酒を注文する。
グラスが置かれた。
一口飲む。
少しだけ肩の力が抜けた。
*
店内には、女性歌手の静かな曲が流れていた。
派手な曲ではない。
夜の店に合う、柔らかな声だった。
理沙はグラスを指先で回しながら、何となく聞いていた。
一曲終わる。
次の曲が始まった。
「あ……」
知っている曲だった。
Castelで歌っていたころ、何度かステージで歌ったことがある。
イントロだけで分かった。
歌詞も覚えている。
意識しないまま、唇が動いた。
声にはならないくらいの小ささで、曲を追う。
一節。
二節。
途中まで来て、理沙は自分が歌っていることに気づいた。
口を閉じる。
グラスへ視線を落とした。
「……まだ覚えてるんだ」
当然といえば当然だった。
何十回も練習した。
人前でも歌った。
忘れる方がおかしい。
そう思う。
それでも少し不思議だった。
システムの仕事をして。
ロサンゼルスに住んで。
シアトルへ来て。
アトランタまで行って。
今は、軍の士官学校へ入れるかどうかを待っている。
まるで別の人生を生きている。
なのに。
音楽が流れただけで、一年前の夜へ戻れる。
Castelの照明。
ステージの熱。
客席。
湯浅。
フィリップ。
島崎。
マリア・エレーナ。
名前を一つ思い出すたび、胸の奥に小さなものが動いた。
戻りたいわけではない。
そう思う。
今さら歌手に戻ろうとも思わない。
それでも、全部なくなったわけではなかった。
たぶん。
そういうものは、きれいになくなるものではないのだろう。
*
理沙は腕時計を見た。
19時28分。
「そろそろか」
グラスを持ち上げる。
もう一口。
そのとき。
背後から声がした。
「久しぶりね」
理沙の手が止まった。
聞き覚えのある声だった。
一年前と変わらない。
理沙はゆっくり振り返った。
そこに、小川美奈が立っていた。
肩までの髪。
落ち着いた服装。
少しだけ疲れているようにも見えるが、柔らかな表情も、こちらを見る目も、記憶の中とほとんど変わっていなかった。
理沙は一瞬、言葉を忘れた。
その声を聞いただけで、一年という時間が急に短くなったような気がした。
「……久しぶり」
ようやく、それだけ言った。
美奈が小さく笑った。
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