003_20_未練は続く

 公園でスマートフォンの画面を見たまま、理沙はしばらく動かなかった。

 表示されている名前は、間違いなく小川美奈だった。

 メッセージを開く。

 久しぶり、という短い挨拶のあとに、来週末、仕事の都合でシアトルへ行くことになった、と書かれていた。

 最後に、

 ――もし時間があったら、久しぶりに会わない?

 とある。

「……会うか」

 声に出してみる。

 断る理由はなかった。

 むしろ、いつかはもう一度会いたいと思っていた。

 それなのに、すぐには返信できなかった。

 理沙はベンチへ座り、まだ薄暗い公園を眺めた。

 一年前。

 歌うことをやめた。

 メジャーデビューの話も断った。

 誰にもきちんと説明できないまま、日本を離れた。

 そのころの自分を知っている人間の一人が、小川だった。

 責められたことはない。

 怒られたこともない。

 だからこそ、少しだけ会いづらかった。

 数分してから、理沙は画面へ視線を戻した。

 返信を書く。

 ――もちろん。会いましょう。

 送信。

 続けて、待ち合わせの場所を考えた。

 静かに話せるところ。

 あまり堅苦しくないところ。

 何度か行ったことのあるショットバーが頭に浮かんだ。

 ――その通りを行った先に、「Heaven」という私の行きつけのショットバーがあります。

 地図を添付して送った。

 およそ30分後、小川から返信が届いた。

 ――分かりました。来週末にシアトルへ行きます。空港に着いたら連絡しますね。

 理沙は画面を閉じた。

 それから立ち上がり、残っていたストレッチを続けた。

 いつもの朝だった。

 ただ、少しだけ違っていた。

     *

 一週間が過ぎた。

 理沙は、正式には仕事を辞めていた。

 最後のレクチャーを終え、後任者たちへ資料を渡し、ダグラスや同僚たちにも挨拶を済ませた。

 自分がいなくても、システムは動いている。

 それでよかった。

 次の仕事を探そうと思えば、いくつか候補はあった。

 職探しエージェントからは、今でも毎日のように通知が届く。

 けれど、今のところ理沙はどこにも応募していなかった。

 技術士官学校の本審査。

 その結果を待っていた。

 期限を決めていた。

 あと三週間。

 それまでに何も連絡がなければ、次の仕事を決める。

 その程度の待ち時間なら、今の貯金で困ることはない。

 とはいえ、朝から晩まで何もしない生活も性に合わなかった。

 昼間だけ、近所の飲食店で短期の仕事を始めた。

 給料が必要でないわけではない。

 ただ、それ以上に生活のリズムを崩したくなかった。

 朝は走る。

 昼は働く。

 夜は筋力トレーニングをする。

 食事をして、シャワーを浴び、早めに寝る。

 仕事を辞めたというのに、以前より規則正しい生活になっていた。

     *

 小川が来る前日の夕方。

 短期の仕事を終えた理沙は、買い物を済ませて自宅へ向かっていた。

 スマートフォンが鳴る。

 小川からだった。

 ――あすのお昼に、シアトルに着く便に乗りました。

 理沙は立ち止まった。

 短い文章を二度読む。

「明日か……」

 一週間前から分かっていたことだった。

 それなのに、急に現実味が増した。

 明日の夜には、小川と向かい合って座っている。

 何を話すのだろう。

 今の仕事。

 アメリカへ来てからのこと。

 ロサンゼルス。

 シアトル。

 これからのこと。

 たぶん、そんな話になる。

 そして。

 あのころのことも。

 理沙は歩き始めた。

 夕暮れのシアトル。

 高い建物の間から、傾いた光が差している。

 別に、何もやましいことはない。

 小川は、自分の才能を見つけてくれた。

 メジャーデビューの機会まで作ろうとしてくれた。

 理沙がそれを断ったあとも、関係を切らなかった。

 時々連絡をくれた。

 無理に歌へ戻そうともしなかった。

 むしろ、ありがたい人だった。

 だから、緊張する理由などない。

 そう思う。

 それでも落ち着かなかった。

「……何聞かれるんだろ」

 独り言が出た。

 自分が歌をやめた理由。

 どうして突然アメリカへ来たのか。

 後悔しているのか。

 また歌いたいと思うことはないのか。

 小川がそんなことを聞くとは限らない。

 むしろ、聞かない可能性の方が高い。

 それでも。

 小川に会えば、あのころの自分まで一緒に目の前へ出てきそうな気がした。

     *

 翌日。

 理沙はいつもどおり早朝に走った。

 いつもの公園。

 いつもの坂。

 少し汗をかいて帰宅し、シャワーを浴びる。

 昼前から短期の仕事へ入った。

 昼過ぎ。

 休憩に入ったところでスマートフォンを見る。

 小川からメッセージが届いていた。

 ――今、空港に着きました。

「来たか」

 理沙はすぐに返信した。

 ホテルへの移動時間を確認し、夜の待ち合わせ時刻を決める。

 19時半。

 Heaven。

 画面を閉じる。

 休憩を終えて仕事へ戻った。

 ところが、その日の午後は妙に時計を見る回数が多かった。

「リサ、何かあるの?」

 同じ店で働いていた女性に聞かれた。

「友達と会うだけ」

「デート?」

「違う」

 即答した。

 相手が笑う。

「じゃあ、そんなに時間気にしなくてもいいじゃない」

「そうなんだけどね」

 理沙も笑った。

 自分でもそう思う。

 料理を運ぶ。

 テーブルを片づける。

 会計をする。

 普段と同じ仕事をしているのに、気づけば頭の隅で別のことを考えている。

 何を話そう。

 何から話そう。

 考えても答えは出なかった。

     *

 19時少し前。

 理沙は一度自宅へ戻った。

 シャワーを浴び、着替えた。

 鏡を見る。

 仕事帰りのままでもよかった。

 それなのに、少しだけ服を選んだ。

「……何やってんだろ」

 苦笑する。

 誰かに見せるためではない。

 ただ、一年ぶりに会う。

 それだけだった。

     *

 Heavenへ着いたのは、約束より20分ほど早かった。

 地下へ続く階段を降りる。

 重い扉を開ける。

 店の中は、いつもどおり薄暗かった。

 カウンターの奥には柔らかな照明。

 棚に並ぶ瓶が、その光を静かに反射している。

 まだ客は多くない。

 理沙はカウンターの端へ座った。

「いつもの?」

 顔を覚えているバーテンダーが聞いた。

「今日は軽いやつ」

「待ち合わせ?」

「うん」

「珍しいね」

「そう?」

「だいたい一人じゃん」

「ほっといて」

 理沙は笑った。

 薄めの酒を注文する。

 グラスが置かれた。

 一口飲む。

 少しだけ肩の力が抜けた。

     *

 店内には、女性歌手の静かな曲が流れていた。

 派手な曲ではない。

 夜の店に合う、柔らかな声だった。

 理沙はグラスを指先で回しながら、何となく聞いていた。

 一曲終わる。

 次の曲が始まった。

「あ……」

 知っている曲だった。

 Castelで歌っていたころ、何度かステージで歌ったことがある。

 イントロだけで分かった。

 歌詞も覚えている。

 意識しないまま、唇が動いた。

 声にはならないくらいの小ささで、曲を追う。

 一節。

 二節。

 途中まで来て、理沙は自分が歌っていることに気づいた。

 口を閉じる。

 グラスへ視線を落とした。

「……まだ覚えてるんだ」

 当然といえば当然だった。

 何十回も練習した。

 人前でも歌った。

 忘れる方がおかしい。

 そう思う。

 それでも少し不思議だった。

 システムの仕事をして。

 ロサンゼルスに住んで。

 シアトルへ来て。

 アトランタまで行って。

 今は、軍の士官学校へ入れるかどうかを待っている。

 まるで別の人生を生きている。

 なのに。

 音楽が流れただけで、一年前の夜へ戻れる。

 Castelの照明。

 ステージの熱。

 客席。

 湯浅。

 フィリップ。

 島崎。

 マリア・エレーナ。

 名前を一つ思い出すたび、胸の奥に小さなものが動いた。

 戻りたいわけではない。

 そう思う。

 今さら歌手に戻ろうとも思わない。

 それでも、全部なくなったわけではなかった。

 たぶん。

 そういうものは、きれいになくなるものではないのだろう。

     *

 理沙は腕時計を見た。

 19時28分。

「そろそろか」

 グラスを持ち上げる。

 もう一口。

 そのとき。

 背後から声がした。

「久しぶりね」

 理沙の手が止まった。

 聞き覚えのある声だった。

 一年前と変わらない。

 理沙はゆっくり振り返った。

 そこに、小川美奈が立っていた。

 肩までの髪。

 落ち着いた服装。

 少しだけ疲れているようにも見えるが、柔らかな表情も、こちらを見る目も、記憶の中とほとんど変わっていなかった。

 理沙は一瞬、言葉を忘れた。

 その声を聞いただけで、一年という時間が急に短くなったような気がした。

「……久しぶり」

 ようやく、それだけ言った。

 美奈が小さく笑った。



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