「……久しぶり」
理沙がそう言うと、美奈は小さく笑った。
「元気そうね」
「うん。美奈さんも」
「そう? 飛行機でちょっと疲れちゃった」
「座って。何か飲む?」
「そうね。少しだけ」
美奈は理沙の隣のカウンター席へ腰を下ろした。
バーテンダーが注文を聞きに来る。
美奈は軽いカクテルを頼んだ。
「いいお店ね」
「静かでしょ」
「ええ。こういうところ、よく来るの?」
「時々。一人で」
「相変わらずね」
「何が?」
「一人でふらっと、こういうところに入っちゃうところ」
理沙は少し笑った。
言われてみれば、東京にいたころもそうだった。
何か特別な用事があるわけでもなく、気に入った店を見つけると、一人で入ってしまう。
そういうところは、あまり変わっていないらしい。
*
「それにしても、アメリカへ来てからもう一年になるのね」
美奈がグラスを持ちながら言った。
「そうだね。あっという間だった」
「どうだった? こっちの生活」
「どうって……」
理沙は少し考えた。
「最初は、結構ひどかったよ」
「え?」
「仕事が全然見つからなくて」
「そうだったの?」
「うん。応募しても、面談まで行かないの。お祈りメールばっかり」
美奈が驚いた顔をした。
「あなたでも?」
「私でも、って。日本での仕事の経験なんて、こっちじゃ最初はあまり見てもらえなかったから」
理沙は笑った。
今なら笑って話せる。
けれど、あのころは本当に不安だった。
ロサンゼルスの小さなアパート。
天井の剥がれかけた壁紙。
毎日届く不採用通知。
減っていく貯金。
横浜のアパートの家賃まで払い続けていた。
「一度、ちょっと怪しい会社に入りそうになって」
「怪しい会社?」
「調べてみたら、いろいろ問題がありそうで。危なかった」
「それは……ちゃんと調べてよかったわね」
「うん。あのときは、仕事が欲しくて仕方なかったから」
美奈は静かに頷いた。
理沙は続けた。
ファストフード店で働いたこと。
食料品店のレジに立ったこと。
そこから交通管制センターの仕事を見つけたこと。
夜勤を続けながら、新しいシステムを組み上げていったこと。
「それでね、ようやく仕事が終わったと思ったら、契約終了」
「ええ?」
「新しいシステムが完成したら、人があまりいらなくなっちゃったの」
「そんな……」
「でも、まあ、そういう仕事だったんだよね」
理沙はグラスを置いた。
「ただ、そこで仲良くなった人がいて」
「お友達?」
「うん。カーリーっていう人。四歳の娘さんがいるんだけど」
美奈は少し身を乗り出した。
「へえ」
「家に呼んでくれてね。娘さんとも一緒にご飯食べたりして」
「楽しそう」
「うん。楽しかった」
理沙は少しだけ目を細めた。
カーリーの家の庭。
夕方のバーベキュー。
最初は人見知りしていた娘が、帰るころには何度も話しかけてくれたこと。
あの何でもない時間が、妙に懐かしかった。
*
「それで、シアトルへ?」
「そう。今度は金融系のシステム」
「仕事はどうだった?」
「大変だった」
理沙は即答した。
美奈が笑った。
「即答ね」
「だって、ほんとに大変だったんだもの」
理沙はダグラスの話をした。
最初に与えられた仕事。
何を聞いても、まず自分で考えろと言われたこと。
何度も資料を作り直したこと。
そのうち、いつの間にか自分が後任者を教える立場になっていたこと。
「で、アトランタまで出張したんだけど」
「アトランタ?」
「うん。現地の担当者が倒れちゃって。急に行くことになって」
「大丈夫だったの?」
「何とかね。でも、毎日くたくた」
理沙は苦笑した。
「自動化されたシステムを作ってるはずなのに、人間の仕事が全然減らないの」
「不思議ね」
「そう。機械が勝手に動いてくれる分、別の仕事が増えるみたい」
美奈は楽しそうに聞いていた。
時々質問を挟む。
理沙も、いつもより少し饒舌になっていた。
「……それで?」
「それで、今度はプロジェクトそのものが中止」
「また?」
「また」
二人は笑った。
「でも、最後に一か月だけ残って、後任の人たちに仕事を教えてきた」
「自分から?」
「うん」
「理沙ちゃん、ずいぶん変わったわね」
「そう?」
「前だったら、仕事がなくなったらすぐ次へ行きそうだったのに」
理沙は少し考えた。
「そうかもしれない」
しばらくして、付け加えた。
「でも、あの仕事はちゃんと終わらせたかったんだよね」
美奈は頷いた。
「それで、今は?」
「今は、ちょっと休憩中」
「次の仕事は?」
「候補はいくつかあるんだけど……」
理沙は少し言いにくそうに笑った。
「実は、別のところに応募してて」
「別のところ?」
「軍の技術士官」
美奈の手が止まった。
「……軍?」
「うん」
「理沙ちゃんが?」
「そんなに意外?」
「意外っていうか……」
美奈は少し考えた。
「あなた、歌手だったのよね?」
「それは昔の話」
「今度は軍人?」
「まだ決まってないよ。審査中」
美奈は理沙を見つめた。
それから、ふっと笑った。
「本当に、何が起こるか分からないものね」
「自分でもそう思う」
理沙も笑った。
*
気づけば、一時間近く経っていた。
最初は少しぎこちなかった会話も、いつの間にか昔の調子へ戻っていた。
カウンターには、空になったグラスが並んでいる。
店内も、いつの間にか客が増えていた。
「少し、奥へ移らない?」
美奈が言った。
「そうだね」
二人はカウンターを離れ、壁際のボックス席へ移った。
向かい合って座る。
美奈はバッグを隣へ置き、少し背中を伸ばした。
「ふう……」
「疲れた?」
「飛行機に乗って、そのまま来たから」
「ホテルで休んでからでもよかったのに」
「せっかくだから、早く会いたかったのよ」
理沙は少し照れくさくなった。
「……ありがと」
美奈が微笑んだ。
少しの間、二人は黙っていた。
店内には、先ほどとは違う静かな曲が流れている。
やがて、美奈が口を開いた。
「そういえば、私ね」
「うん?」
「HALUCA、辞めたの」
理沙は顔を上げた。
「……そうなんだ」
「半年前に」
「そっか」
意外ではあった。
ただ、まったく予想していなかったわけでもなかった。
*
一年前。
まりあの近況を伝える映像が公開された日。
理沙は、その映像を見たあと、美奈と話をした。
あのときの美奈は、いつもの美奈とは少し違っていた。
何かを言いかけて、言葉を選ぶ。
会社の方針について聞かれても、はっきりした答えを避ける。
それでも、彼女自身が納得していないことだけは、理沙にも何となく伝わっていた。
「やっぱり、あのこと?」
理沙が聞いた。
美奈は少し目を伏せた。
「……そうね」
そして、グラスへ視線を落とした。
*
「あなたが日本を離れたあと、しばらくは大変だったのよ」
美奈が話し始めた。
マリア・エレーナの突然の引退。
公開された近況報告の映像。
その内容について、さまざまな反応があった。
残念がるファン。
復帰を望む声。
説明に納得できないという意見。
そもそも、なぜあれほど急に姿を消したのかという疑問。
「最初は、結構騒がれたの」
「うん」
「映像を見ても、納得できない人は多かったみたい」
理沙は黙って聞いていた。
「でもね」
美奈は少し間を置いた。
「不思議なものよね。だんだん、誰もその話をしなくなったの」
別のニュースが出る。
別の歌手が話題になる。
新しい曲が発売される。
世間の関心は、少しずつ別のところへ移っていった。
「何かが解決したわけじゃないの」
美奈が言った。
「ただ、話題にならなくなっただけ」
理沙は頷いた。
「……そういうものなのかな」
「そういうものなのかもしれないわね」
美奈は小さく息を吐いた。
「でも、曲は残ったのよ」
「曲?」
「ええ。マリア・エレーナの曲」
引退直後は、突然姿を消した歌手の曲として聴かれていた。
やがて、そうした事情を知らない人たちも曲を聴くようになった。
街で流れる。
配信で聴かれる。
誰かが歌う。
歌手本人についてほとんど知らない人間が、その曲だけを気に入る。
「そうして、普通の曲になっていったの」
美奈は静かに言った。
「普通の曲……」
理沙はその言葉を繰り返した。
「そう。何事もなかったみたいに」
理沙はグラスに残った酒を見つめた。
まりあの声を思い出した。
あの独特の歌声。
ステージに立っていた姿。
自分と一緒に歌った時間。
その人が、今どこで何をしているのか。
理沙は知らなかった。
*
「HALUCAも、そのあと縮小したの」
美奈が続けた。
「芸能プロダクションとしての活動は、ほとんど終わり」
「そうなんだ」
「今は、マリア・エレーナの楽曲の権利を管理する、小さな会社になってる」
「……そっか」
理沙は少し驚いた。
かつて、あれほど大きな期待をかけてマリア・エレーナを世に送り出そうとしていた会社だった。
自分にもメジャーデビューの話が来た。
大きな企画が動いていた。
何人もの人間が、その仕事に関わっていた。
それが今は、楽曲の管理だけを続けているという。
「私が辞めたのは、その少し前だけどね」
美奈は言った。
「柴原社長とは、最後まで意見が合わなかった」
「……まりあのこと?」
「ええ」
*
美奈は、しばらく言葉を探していた。
理沙は急かさなかった。
「社長には、何度も言ったの」
「何を?」
「ちゃんと説明すべきだって」
美奈は理沙を見た。
「まりあに何があったのか。どうしてあんな形で引退することになったのか。会社として、説明する責任があるんじゃないかって」
理沙は黙っていた。
「でも、社長は最後まで考えを変えなかった」
「何て言ってたの?」
「今さら公表しても、誰も幸せにならないって」
美奈は少し寂しそうに笑った。
「会社や関係者を守らなきゃいけない、っていうのもあったんでしょうね」
理沙は頷いた。
柴原にも、柴原の立場があったのだろう。
会社を経営する人間として、考えなければならないことがあったのかもしれない。
しかし、それだけですべてを納得できるわけでもなかった。
「美奈さんは、納得できなかったんだ」
「そうね」
美奈は静かに答えた。
「何もなかったことには、したくなかったの」
短い沈黙があった。
「何度も話したわ。ちゃんと説明すれば、分かってくれる人だっているはずだって」
「うん」
「でも、最後はもう、話し合いにもならなくなっちゃって」
美奈はグラスを持ち上げた。
少しだけ飲む。
「結局、喧嘩別れ」
「……そっか」
「私も、引けなかったのよ」
理沙は美奈の顔を見た。
美奈は淡々と話していた。
怒っているようには見えなかった。
けれど、すっかり割り切っているようにも見えなかった。
「後悔してる?」
理沙が聞いた。
美奈は少し考えた。
「辞めたこと?」
「うん」
「それは、してないと思う」
そこで言葉を止めた。
「でも、もっと違うやり方があったのかな、とは思うわね」
理沙は何も言わなかった。
美奈も、それ以上は続けなかった。
*
店内には、相変わらず静かな音楽が流れていた。
隣の席から、時々笑い声が聞こえる。
カウンターでは、バーテンダーが新しいグラスを磨いている。
外の街では、今日もいつもどおり人が行き交っているのだろう。
その小さな店の片隅で、理沙は美奈の話を聞いていた。
一年前。
自分が日本を離れたあとも、当然ながら時間は流れ続けていた。
ロサンゼルスで仕事を探している間。
交通管制センターで夜勤をしている間。
シアトルでダグラスに叱られている間。
アトランタで慌ただしく働いている間。
日本では、別の時間が流れていた。
まりあの曲は聴かれ続けた。
HALUCAは規模を縮小した。
美奈は会社を辞めた。
そのことを、理沙は何も知らなかった。
そして、美奈もまた、理沙がアメリカでどのように暮らしていたのかを、今日までほとんど知らなかった。
「……大変だったね」
理沙は、ようやくそう言った。
美奈は少し笑った。
「理沙ちゃんほどじゃないわよ」
「そんなことないでしょ」
「そう?」
「うん」
二人は顔を見合わせた。
それから、少しだけ笑った。
*
「そういえば」
理沙が言った。
「美奈さん、今は何してるの?」
「イベント関係の会社で働いてる」
「また芸能関係?」
「少し違うわね。企業のイベントとか、広報関係の仕事」
「へえ」
「契約社員だけどね」
「そうなんだ」
「でも、いろんな人に会えるから、それなりに面白いわよ」
美奈は微笑んだ。
「それに、ちょっと取材みたいなこともやってみたくて」
「取材?」
「ええ。人の話を聞いて、文章にまとめたり」
「ジャーナリスト?」
「そこまで立派なものじゃないけど」
美奈は少し照れくさそうに笑った。
「昔から、そういうことに興味はあったの」
理沙は頷いた。
そういえば、美奈は以前から人の話を聞くのがうまかった。
相手が何を考えているのか。
何を言いたがっているのか。
そういうことを、さりげなく引き出す。
自分がメジャーデビューの話を持ちかけられたときも、そうだった。
「向いてるかもね」
理沙が言った。
「本当に?」
「うん。人の話を聞くの、うまいし」
「理沙ちゃんが今日はよく喋ってくれたからじゃない?」
「そうかな」
「そうよ」
美奈は笑った。
*
しばらくして、二人のグラスが空になった。
時計を見る。
思っていたより、ずいぶん時間が経っている。
「そろそろ出ようか」
理沙が言った。
「そうね」
二人は会計を済ませ、店を出た。
階段を上がる。
扉が閉まると、店内の音楽が遠くなった。
外は、ひんやりとしていた。
シアトルの夜。
昼間はまだ少し暑かったが、日が落ちると風が冷たくなる。
「ああ、気持ちいい」
美奈が小さく伸びをした。
「涼しいでしょ」
「ええ。東京はまだ蒸し暑いから」
「こっちは、もう秋かな」
二人は歩き始めた。
街灯の下を、時々車が通り過ぎる。
歩道には、仕事帰りらしい人たちが何人か歩いていた。
美奈はしばらく黙っていた。
理沙も、特に何かを話そうとはしなかった。
それでも、気まずくはなかった。
*
ふと、理沙は思った。
昨日まで、あれほど気になっていたこと。
美奈に何を聞かれるのだろう。
メジャーデビューを断ったことを、どう思っているのだろう。
歌をやめたことを、後悔していないかと聞かれるのだろうか。
そんなことばかり考えていた。
けれど、今日の美奈は、そのどれも聞かなかった。
ただ、理沙の話を楽しそうに聞いてくれた。
そして、自分の一年間を話してくれた。
美奈もまた、いろいろなことを考え、迷い、自分なりに決めてきたのだろう。
理沙が知らないところで。
誰にも知られずに。
その時間があった。
理沙は隣を歩く美奈を見た。
一年前と、ほとんど変わらない姿だった。
それでも、きっと同じではない。
自分と同じように。
「……お腹空かない?」
不意に、美奈が言った。
「え?」
「飛行機であまり食べなかったから」
「ああ、そうか」
理沙は少し考えた。
「この先に、遅くまでやってるカフェがあるよ」
「何か食べられる?」
「うん。軽いものなら」
「じゃあ、行かない?」
「いいよ」
二人は歩く方向を少し変えた。
「ところで」
美奈が言った。
「理沙ちゃん、本当に毎朝走ってるの?」
「うん」
「何時から?」
「五時半くらい」
「……私には無理だわ」
「私も最初はそう思った」
「三日でやめそう」
「私だって、最初は三日でやめようかと思ったよ」
二人は笑った。
夜風が、通りを静かに吹き抜けていった。
理沙はもう、美奈に何を話そうかと考えていなかった。
ただ、隣を歩きながら、思いついたことを話していた。
カフェの灯りが、通りの少し先に見えていた。
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