003_21_誰にも知られずに

「……久しぶり」

 理沙がそう言うと、美奈は小さく笑った。

「元気そうね」

「うん。美奈さんも」

「そう? 飛行機でちょっと疲れちゃった」

「座って。何か飲む?」

「そうね。少しだけ」

 美奈は理沙の隣のカウンター席へ腰を下ろした。

 バーテンダーが注文を聞きに来る。

 美奈は軽いカクテルを頼んだ。

「いいお店ね」

「静かでしょ」

「ええ。こういうところ、よく来るの?」

「時々。一人で」

「相変わらずね」

「何が?」

「一人でふらっと、こういうところに入っちゃうところ」

 理沙は少し笑った。

 言われてみれば、東京にいたころもそうだった。

 何か特別な用事があるわけでもなく、気に入った店を見つけると、一人で入ってしまう。

 そういうところは、あまり変わっていないらしい。

     *

「それにしても、アメリカへ来てからもう一年になるのね」

 美奈がグラスを持ちながら言った。

「そうだね。あっという間だった」

「どうだった? こっちの生活」

「どうって……」

 理沙は少し考えた。

「最初は、結構ひどかったよ」

「え?」

「仕事が全然見つからなくて」

「そうだったの?」

「うん。応募しても、面談まで行かないの。お祈りメールばっかり」

 美奈が驚いた顔をした。

「あなたでも?」

「私でも、って。日本での仕事の経験なんて、こっちじゃ最初はあまり見てもらえなかったから」

 理沙は笑った。

 今なら笑って話せる。

 けれど、あのころは本当に不安だった。

 ロサンゼルスの小さなアパート。

 天井の剥がれかけた壁紙。

 毎日届く不採用通知。

 減っていく貯金。

 横浜のアパートの家賃まで払い続けていた。

「一度、ちょっと怪しい会社に入りそうになって」

「怪しい会社?」

「調べてみたら、いろいろ問題がありそうで。危なかった」

「それは……ちゃんと調べてよかったわね」

「うん。あのときは、仕事が欲しくて仕方なかったから」

 美奈は静かに頷いた。

 理沙は続けた。

 ファストフード店で働いたこと。

 食料品店のレジに立ったこと。

 そこから交通管制センターの仕事を見つけたこと。

 夜勤を続けながら、新しいシステムを組み上げていったこと。

「それでね、ようやく仕事が終わったと思ったら、契約終了」

「ええ?」

「新しいシステムが完成したら、人があまりいらなくなっちゃったの」

「そんな……」

「でも、まあ、そういう仕事だったんだよね」

 理沙はグラスを置いた。

「ただ、そこで仲良くなった人がいて」

「お友達?」

「うん。カーリーっていう人。四歳の娘さんがいるんだけど」

 美奈は少し身を乗り出した。

「へえ」

「家に呼んでくれてね。娘さんとも一緒にご飯食べたりして」

「楽しそう」

「うん。楽しかった」

 理沙は少しだけ目を細めた。

 カーリーの家の庭。

 夕方のバーベキュー。

 最初は人見知りしていた娘が、帰るころには何度も話しかけてくれたこと。

 あの何でもない時間が、妙に懐かしかった。

     *

「それで、シアトルへ?」

「そう。今度は金融系のシステム」

「仕事はどうだった?」

「大変だった」

 理沙は即答した。

 美奈が笑った。

「即答ね」

「だって、ほんとに大変だったんだもの」

 理沙はダグラスの話をした。

 最初に与えられた仕事。

 何を聞いても、まず自分で考えろと言われたこと。

 何度も資料を作り直したこと。

 そのうち、いつの間にか自分が後任者を教える立場になっていたこと。

「で、アトランタまで出張したんだけど」

「アトランタ?」

「うん。現地の担当者が倒れちゃって。急に行くことになって」

「大丈夫だったの?」

「何とかね。でも、毎日くたくた」

 理沙は苦笑した。

「自動化されたシステムを作ってるはずなのに、人間の仕事が全然減らないの」

「不思議ね」

「そう。機械が勝手に動いてくれる分、別の仕事が増えるみたい」

 美奈は楽しそうに聞いていた。

 時々質問を挟む。

 理沙も、いつもより少し饒舌になっていた。

「……それで?」

「それで、今度はプロジェクトそのものが中止」

「また?」

「また」

 二人は笑った。

「でも、最後に一か月だけ残って、後任の人たちに仕事を教えてきた」

「自分から?」

「うん」

「理沙ちゃん、ずいぶん変わったわね」

「そう?」

「前だったら、仕事がなくなったらすぐ次へ行きそうだったのに」

 理沙は少し考えた。

「そうかもしれない」

 しばらくして、付け加えた。

「でも、あの仕事はちゃんと終わらせたかったんだよね」

 美奈は頷いた。

「それで、今は?」

「今は、ちょっと休憩中」

「次の仕事は?」

「候補はいくつかあるんだけど……」

 理沙は少し言いにくそうに笑った。

「実は、別のところに応募してて」

「別のところ?」

「軍の技術士官」

 美奈の手が止まった。

「……軍?」

「うん」

「理沙ちゃんが?」

「そんなに意外?」

「意外っていうか……」

 美奈は少し考えた。

「あなた、歌手だったのよね?」

「それは昔の話」

「今度は軍人?」

「まだ決まってないよ。審査中」

 美奈は理沙を見つめた。

 それから、ふっと笑った。

「本当に、何が起こるか分からないものね」

「自分でもそう思う」

 理沙も笑った。

     *

 気づけば、一時間近く経っていた。

 最初は少しぎこちなかった会話も、いつの間にか昔の調子へ戻っていた。

 カウンターには、空になったグラスが並んでいる。

 店内も、いつの間にか客が増えていた。

「少し、奥へ移らない?」

 美奈が言った。

「そうだね」

 二人はカウンターを離れ、壁際のボックス席へ移った。

 向かい合って座る。

 美奈はバッグを隣へ置き、少し背中を伸ばした。

「ふう……」

「疲れた?」

「飛行機に乗って、そのまま来たから」

「ホテルで休んでからでもよかったのに」

「せっかくだから、早く会いたかったのよ」

 理沙は少し照れくさくなった。

「……ありがと」

 美奈が微笑んだ。

 少しの間、二人は黙っていた。

 店内には、先ほどとは違う静かな曲が流れている。

 やがて、美奈が口を開いた。

「そういえば、私ね」

「うん?」

「HALUCA、辞めたの」

 理沙は顔を上げた。

「……そうなんだ」

「半年前に」

「そっか」

 意外ではあった。

 ただ、まったく予想していなかったわけでもなかった。

     *

 一年前。

 まりあの近況を伝える映像が公開された日。

 理沙は、その映像を見たあと、美奈と話をした。

 あのときの美奈は、いつもの美奈とは少し違っていた。

 何かを言いかけて、言葉を選ぶ。

 会社の方針について聞かれても、はっきりした答えを避ける。

 それでも、彼女自身が納得していないことだけは、理沙にも何となく伝わっていた。

「やっぱり、あのこと?」

 理沙が聞いた。

 美奈は少し目を伏せた。

「……そうね」

 そして、グラスへ視線を落とした。

     *

「あなたが日本を離れたあと、しばらくは大変だったのよ」

 美奈が話し始めた。

 マリア・エレーナの突然の引退。

 公開された近況報告の映像。

 その内容について、さまざまな反応があった。

 残念がるファン。

 復帰を望む声。

 説明に納得できないという意見。

 そもそも、なぜあれほど急に姿を消したのかという疑問。

「最初は、結構騒がれたの」

「うん」

「映像を見ても、納得できない人は多かったみたい」

 理沙は黙って聞いていた。

「でもね」

 美奈は少し間を置いた。

「不思議なものよね。だんだん、誰もその話をしなくなったの」

 別のニュースが出る。

 別の歌手が話題になる。

 新しい曲が発売される。

 世間の関心は、少しずつ別のところへ移っていった。

「何かが解決したわけじゃないの」

 美奈が言った。

「ただ、話題にならなくなっただけ」

 理沙は頷いた。

「……そういうものなのかな」

「そういうものなのかもしれないわね」

 美奈は小さく息を吐いた。

「でも、曲は残ったのよ」

「曲?」

「ええ。マリア・エレーナの曲」

 引退直後は、突然姿を消した歌手の曲として聴かれていた。

 やがて、そうした事情を知らない人たちも曲を聴くようになった。

 街で流れる。

 配信で聴かれる。

 誰かが歌う。

 歌手本人についてほとんど知らない人間が、その曲だけを気に入る。

「そうして、普通の曲になっていったの」

 美奈は静かに言った。

「普通の曲……」

 理沙はその言葉を繰り返した。

「そう。何事もなかったみたいに」

 理沙はグラスに残った酒を見つめた。

 まりあの声を思い出した。

 あの独特の歌声。

 ステージに立っていた姿。

 自分と一緒に歌った時間。

 その人が、今どこで何をしているのか。

 理沙は知らなかった。

     *

「HALUCAも、そのあと縮小したの」

 美奈が続けた。

「芸能プロダクションとしての活動は、ほとんど終わり」

「そうなんだ」

「今は、マリア・エレーナの楽曲の権利を管理する、小さな会社になってる」

「……そっか」

 理沙は少し驚いた。

 かつて、あれほど大きな期待をかけてマリア・エレーナを世に送り出そうとしていた会社だった。

 自分にもメジャーデビューの話が来た。

 大きな企画が動いていた。

 何人もの人間が、その仕事に関わっていた。

 それが今は、楽曲の管理だけを続けているという。

「私が辞めたのは、その少し前だけどね」

 美奈は言った。

「柴原社長とは、最後まで意見が合わなかった」

「……まりあのこと?」

「ええ」

     *

 美奈は、しばらく言葉を探していた。

 理沙は急かさなかった。

「社長には、何度も言ったの」

「何を?」

「ちゃんと説明すべきだって」

 美奈は理沙を見た。

「まりあに何があったのか。どうしてあんな形で引退することになったのか。会社として、説明する責任があるんじゃないかって」

 理沙は黙っていた。

「でも、社長は最後まで考えを変えなかった」

「何て言ってたの?」

「今さら公表しても、誰も幸せにならないって」

 美奈は少し寂しそうに笑った。

「会社や関係者を守らなきゃいけない、っていうのもあったんでしょうね」

 理沙は頷いた。

 柴原にも、柴原の立場があったのだろう。

 会社を経営する人間として、考えなければならないことがあったのかもしれない。

 しかし、それだけですべてを納得できるわけでもなかった。

「美奈さんは、納得できなかったんだ」

「そうね」

 美奈は静かに答えた。

「何もなかったことには、したくなかったの」

 短い沈黙があった。

「何度も話したわ。ちゃんと説明すれば、分かってくれる人だっているはずだって」

「うん」

「でも、最後はもう、話し合いにもならなくなっちゃって」

 美奈はグラスを持ち上げた。

 少しだけ飲む。

「結局、喧嘩別れ」

「……そっか」

「私も、引けなかったのよ」

 理沙は美奈の顔を見た。

 美奈は淡々と話していた。

 怒っているようには見えなかった。

 けれど、すっかり割り切っているようにも見えなかった。

「後悔してる?」

 理沙が聞いた。

 美奈は少し考えた。

「辞めたこと?」

「うん」

「それは、してないと思う」

 そこで言葉を止めた。

「でも、もっと違うやり方があったのかな、とは思うわね」

 理沙は何も言わなかった。

 美奈も、それ以上は続けなかった。

     *

 店内には、相変わらず静かな音楽が流れていた。

 隣の席から、時々笑い声が聞こえる。

 カウンターでは、バーテンダーが新しいグラスを磨いている。

 外の街では、今日もいつもどおり人が行き交っているのだろう。

 その小さな店の片隅で、理沙は美奈の話を聞いていた。

 一年前。

 自分が日本を離れたあとも、当然ながら時間は流れ続けていた。

 ロサンゼルスで仕事を探している間。

 交通管制センターで夜勤をしている間。

 シアトルでダグラスに叱られている間。

 アトランタで慌ただしく働いている間。

 日本では、別の時間が流れていた。

 まりあの曲は聴かれ続けた。

 HALUCAは規模を縮小した。

 美奈は会社を辞めた。

 そのことを、理沙は何も知らなかった。

 そして、美奈もまた、理沙がアメリカでどのように暮らしていたのかを、今日までほとんど知らなかった。

「……大変だったね」

 理沙は、ようやくそう言った。

 美奈は少し笑った。

「理沙ちゃんほどじゃないわよ」

「そんなことないでしょ」

「そう?」

「うん」

 二人は顔を見合わせた。

 それから、少しだけ笑った。

     *

「そういえば」

 理沙が言った。

「美奈さん、今は何してるの?」

「イベント関係の会社で働いてる」

「また芸能関係?」

「少し違うわね。企業のイベントとか、広報関係の仕事」

「へえ」

「契約社員だけどね」

「そうなんだ」

「でも、いろんな人に会えるから、それなりに面白いわよ」

 美奈は微笑んだ。

「それに、ちょっと取材みたいなこともやってみたくて」

「取材?」

「ええ。人の話を聞いて、文章にまとめたり」

「ジャーナリスト?」

「そこまで立派なものじゃないけど」

 美奈は少し照れくさそうに笑った。

「昔から、そういうことに興味はあったの」

 理沙は頷いた。

 そういえば、美奈は以前から人の話を聞くのがうまかった。

 相手が何を考えているのか。

 何を言いたがっているのか。

 そういうことを、さりげなく引き出す。

 自分がメジャーデビューの話を持ちかけられたときも、そうだった。

「向いてるかもね」

 理沙が言った。

「本当に?」

「うん。人の話を聞くの、うまいし」

「理沙ちゃんが今日はよく喋ってくれたからじゃない?」

「そうかな」

「そうよ」

 美奈は笑った。

     *

 しばらくして、二人のグラスが空になった。

 時計を見る。

 思っていたより、ずいぶん時間が経っている。

「そろそろ出ようか」

 理沙が言った。

「そうね」

 二人は会計を済ませ、店を出た。

 階段を上がる。

 扉が閉まると、店内の音楽が遠くなった。

 外は、ひんやりとしていた。

 シアトルの夜。

 昼間はまだ少し暑かったが、日が落ちると風が冷たくなる。

「ああ、気持ちいい」

 美奈が小さく伸びをした。

「涼しいでしょ」

「ええ。東京はまだ蒸し暑いから」

「こっちは、もう秋かな」

 二人は歩き始めた。

 街灯の下を、時々車が通り過ぎる。

 歩道には、仕事帰りらしい人たちが何人か歩いていた。

 美奈はしばらく黙っていた。

 理沙も、特に何かを話そうとはしなかった。

 それでも、気まずくはなかった。

     *

 ふと、理沙は思った。

 昨日まで、あれほど気になっていたこと。

 美奈に何を聞かれるのだろう。

 メジャーデビューを断ったことを、どう思っているのだろう。

 歌をやめたことを、後悔していないかと聞かれるのだろうか。

 そんなことばかり考えていた。

 けれど、今日の美奈は、そのどれも聞かなかった。

 ただ、理沙の話を楽しそうに聞いてくれた。

 そして、自分の一年間を話してくれた。

 美奈もまた、いろいろなことを考え、迷い、自分なりに決めてきたのだろう。

 理沙が知らないところで。

 誰にも知られずに。

 その時間があった。

 理沙は隣を歩く美奈を見た。

 一年前と、ほとんど変わらない姿だった。

 それでも、きっと同じではない。

 自分と同じように。

「……お腹空かない?」

 不意に、美奈が言った。

「え?」

「飛行機であまり食べなかったから」

「ああ、そうか」

 理沙は少し考えた。

「この先に、遅くまでやってるカフェがあるよ」

「何か食べられる?」

「うん。軽いものなら」

「じゃあ、行かない?」

「いいよ」

 二人は歩く方向を少し変えた。

「ところで」

 美奈が言った。

「理沙ちゃん、本当に毎朝走ってるの?」

「うん」

「何時から?」

「五時半くらい」

「……私には無理だわ」

「私も最初はそう思った」

「三日でやめそう」

「私だって、最初は三日でやめようかと思ったよ」

 二人は笑った。

 夜風が、通りを静かに吹き抜けていった。

 理沙はもう、美奈に何を話そうかと考えていなかった。

 ただ、隣を歩きながら、思いついたことを話していた。

 カフェの灯りが、通りの少し先に見えていた。



003_22へ