結局、その夜は日付が変わるころまで話していた。
Heavenを出たあとに入ったカフェでも話は尽きなかった。
仕事のこと。
東京のこと。
ロサンゼルスのこと。
HALUCAのこと。
まりあのこと。
何か一つの話が終わると、そこから別の話が始まった。
久しぶりに会ったはずなのに、いつの間にか一年という空白を埋めるように、二人ともよく喋っていた。
*
「さすがに、もう帰らないと」
美奈が時計を見た。
「もうこんな時間?」
「理沙ちゃん、明日の朝も走るんでしょう?」
「……たぶん」
「そこまでして走らなくてもいいんじゃない?」
「一日休むと、ずるずる休みそうだから」
「真面目ねえ」
「美奈さんに言われたくない」
二人は笑った。
店を出ると、夜の空気はさらに冷えていた。
通りにはまだ車が走っていたが、人の姿は少なくなっている。
理沙はスマートフォンでタクシーを呼んだ。
数分後、車が道端へ止まった。
「じゃあ、三日後ね」
美奈がドアの前で言った。
「空港まで行くよ」
「いいのに」
「暇だから」
「その言い方、どうなの?」
「ほんとだもん」
美奈は苦笑した。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「うん」
美奈が車へ乗り込む。
ドアが閉まる直前、美奈が窓越しに手を振った。
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
車が走り出した。
理沙は、赤いテールランプが交差点の向こうへ消えるまで立っていた。
昨日まで感じていた妙な緊張は、もう残っていなかった。
*
三日後。
午後の空港は、人であふれていた。
出発案内の表示が次々に切り替わる。
大きな荷物を引く人。
急ぎ足でゲートへ向かう人。
久しぶりの再会を喜んでいる人。
別れ際に抱き合う人。
理沙と美奈は、その人混みの中をゆっくり歩いていた。
「本当に三日なんて、あっという間ね」
美奈が言った。
「仕事もあったんでしょ?」
「一応ね。でも今回はそんなに忙しくなかった」
「観光はできた?」
「少しだけ」
「ならよかった」
やがて、搭乗者だけが先へ進む場所まで来た。
美奈が立ち止まる。
「ここまでね」
「うん」
少しの沈黙。
何か特別な言葉を言わなければならないような気もした。
けれど、結局、美奈が先に笑った。
「また会おうね」
「うん」
「今度は東京かな」
「分からないよ」
「え?」
「私がどこにいるか」
美奈は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「そうだった。あなた、次にどこへ行くか全然分からない人だった」
「そんな言い方しなくても」
「軍人になってるかもしれないし」
「まだ決まってないって」
「じゃあ、決まったら連絡して」
「うん」
「必ずよ」
「分かってる」
美奈は少しだけ真顔になった。
「じゃあ、元気でね」
「美奈さんも」
それだけだった。
美奈はキャリーケースの取っ手を握り、出発ロビーの奥へ歩いていった。
一度振り返る。
理沙が手を上げる。
美奈も手を振った。
それから人の流れに混じり、姿が見えなくなった。
理沙は、その場所にしばらく立っていた。
*
空港を離れ、市内へ戻る。
そのまま家へ帰る気にはならなかった。
まだ夕方には少し早い。
理沙は途中で降り、湾岸の方へ歩いた。
通りを抜ける。
建物の間から海が見える。
フェリーがゆっくりと水面を進んでいた。
遠くには低い雲。
その向こうから傾き始めた日差しが、水面を長く照らしている。
理沙は歩く速度を落とした。
*
三日前の夜。
美奈と話したことを思い出す。
かなり遅い時間になってから、まりあの話になった。
もう十分話したはずなのに、なぜかその話だけは終わらなかった。
「私ね」
美奈がカフェのテーブルで言った。
「いつか、まりあのことをちゃんと残したいと思ってるの」
理沙は黙って聞いていた。
「真相を暴くとか、そういう意味じゃなくて」
「うん」
「暴露本みたいなのも違うと思う」
「私も、それは嫌だな」
「でしょ?」
美奈は頷いた。
「まりあが、どんな人だったのか。どんなふうに歌って、何を考えてたのか。そういうことを、普通に残せたらいいなって」
理沙は少し考えてから言った。
「私たちが知ってるまりあを?」
「そう」
「それなら……いいかもね」
「理沙ちゃんも、そのとき話してくれる?」
すぐには答えなかった。
それでも、最後には頷いた。
「いつかなら」
美奈は笑った。
「いつか、ね」
*
約束と呼べるほど強いものではなかった。
いつやるのかも決めていない。
誰に向けて語るのかも分からない。
そもそも、本当にそんな日が来るのかも分からない。
それでも。
まりあのことを、何か刺激的な事件としてではなく。
同じ時間を過ごした一人の人間として、いつか話すことができたら。
理沙は、それなら悪くないと思った。
*
海沿いの通りを歩き続ける。
日は、さらに低くなっていた。
水面の光が、白から橙色へ変わり始めている。
ベンチに座る人。
犬を連れて歩く人。
自転車で通り過ぎる人。
誰も理沙のことなど気にしていなかった。
理沙もまた、何をするでもなく歩いていた。
*
この一年。
いろいろな場所へ行った。
ロサンゼルス。
交通管制センター。
カーリーの家。
シアトル。
アトランタ。
そしてまた、シアトル。
思えば、ずっと動いていた。
仕事が終われば、次の仕事へ。
場所が変われば、その場所で生活する。
知らない人に会い、いつの間にか親しくなる。
そしてまた、離れる。
カーリー。
その娘。
交通管制センターの同僚たち。
ダグラス。
アトランタのスタッフ。
日本に残してきた人たち。
湯浅。
フィリップ。
島崎。
美奈。
まりあ。
一つの顔を思い出すたび、胸の奥に小さな重みが残った。
*
別れたくて別れたわけではない。
嫌いになったわけでもない。
ただ、自分が先へ進むたびに、少しずつ後ろに残っていった。
理沙は立ち止まった。
海の向こうへ日が傾いている。
士官学校。
技術士官。
軍。
つい数か月前まで、自分とは何の関係もない世界だった。
興味半分で申し込んだ。
審査書類を書いた。
朝早く起きて走るようになった。
身体を鍛えた。
気づけば、その先に進めるかもしれないことを楽しみにしている自分がいる。
もし審査を通過したら。
もし入学できたら。
今までとは、またまったく違う場所へ行くことになる。
新しい仕事。
新しい人。
新しい生活。
そう考えると、胸が少し高鳴った。
*
けれど。
理沙は沈みかけた夕日を見つめた。
「……それで、いいのかな」
小さく呟いた。
軍へ行くことが正しいのか。
そういうことだけではなかった。
この先もずっと。
何かを見つけてはそこへ進み。
誰かと出会って。
また次へ行く。
そのたびに、自分の後ろに何かを残していく。
それでいいのだろうか。
そうしなければ前へ進めないのだろうか。
*
答えは出なかった。
そもそも、まだ士官学校へ進めると決まったわけでもない。
何も起きなければ、三週間後にはまた普通のシステムの仕事を探すつもりだった。
今考えていること自体が、全部無駄になるかもしれない。
理沙は少し笑った。
「気が早いよね」
誰に言うでもなく呟いた。
*
太陽が雲の切れ間へ入った。
一瞬、水面が強く光った。
橙色の筋が、遠くから理沙の足元近くまで伸びているように見えた。
理沙はその光を見つめた。
東京にいたころ。
ステージの上で歌っていたころ。
ロサンゼルスで明日の仕事さえ分からなかったころ。
あのときには、今日の自分など想像もできなかった。
なら。
今ここで、先の答えを出そうとしても仕方がないのかもしれない。
それでも、不安は残った。
期待も残った。
未練も残っている。
全部きれいに整理できるわけではない。
*
やがて、日が沈み始めた。
赤みを帯びた太陽が、少しずつ視界の下へ消えていく。
理沙は黙って見ていた。
あと少し。
半分。
そして、見えなくなった。
海の上にはまだ光が残っていた。
空も明るい。
それでも、一つの日が終わったことだけは分かった。
*
理沙は腕時計を見た。
「帰ろう」
ベンチから立ち上がる。
歩き始める。
答えは、まだ出ていなかった。
それでいいのかもしれない。
今日が終わっても、明日は来る。
理沙は薄暗くなり始めた通りを、自宅の方へ歩いていった。
背後では、沈んだ夕日の名残だけが、しばらく海を照らしていた。
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