003_22_夕日を眺めながら

 結局、その夜は日付が変わるころまで話していた。

 Heavenを出たあとに入ったカフェでも話は尽きなかった。

 仕事のこと。

 東京のこと。

 ロサンゼルスのこと。

 HALUCAのこと。

 まりあのこと。

 何か一つの話が終わると、そこから別の話が始まった。

 久しぶりに会ったはずなのに、いつの間にか一年という空白を埋めるように、二人ともよく喋っていた。

     *

「さすがに、もう帰らないと」

 美奈が時計を見た。

「もうこんな時間?」

「理沙ちゃん、明日の朝も走るんでしょう?」

「……たぶん」

「そこまでして走らなくてもいいんじゃない?」

「一日休むと、ずるずる休みそうだから」

「真面目ねえ」

「美奈さんに言われたくない」

 二人は笑った。

 店を出ると、夜の空気はさらに冷えていた。

 通りにはまだ車が走っていたが、人の姿は少なくなっている。

 理沙はスマートフォンでタクシーを呼んだ。

 数分後、車が道端へ止まった。

「じゃあ、三日後ね」

 美奈がドアの前で言った。

「空港まで行くよ」

「いいのに」

「暇だから」

「その言い方、どうなの?」

「ほんとだもん」

 美奈は苦笑した。

「じゃあ、お言葉に甘えようかな」

「うん」

 美奈が車へ乗り込む。

 ドアが閉まる直前、美奈が窓越しに手を振った。

「今日はありがとう」

「こっちこそ」

 車が走り出した。

 理沙は、赤いテールランプが交差点の向こうへ消えるまで立っていた。

 昨日まで感じていた妙な緊張は、もう残っていなかった。

     *

 三日後。

 午後の空港は、人であふれていた。

 出発案内の表示が次々に切り替わる。

 大きな荷物を引く人。

 急ぎ足でゲートへ向かう人。

 久しぶりの再会を喜んでいる人。

 別れ際に抱き合う人。

 理沙と美奈は、その人混みの中をゆっくり歩いていた。

「本当に三日なんて、あっという間ね」

 美奈が言った。

「仕事もあったんでしょ?」

「一応ね。でも今回はそんなに忙しくなかった」

「観光はできた?」

「少しだけ」

「ならよかった」

 やがて、搭乗者だけが先へ進む場所まで来た。

 美奈が立ち止まる。

「ここまでね」

「うん」

 少しの沈黙。

 何か特別な言葉を言わなければならないような気もした。

 けれど、結局、美奈が先に笑った。

「また会おうね」

「うん」

「今度は東京かな」

「分からないよ」

「え?」

「私がどこにいるか」

 美奈は一瞬きょとんとして、それから笑った。

「そうだった。あなた、次にどこへ行くか全然分からない人だった」

「そんな言い方しなくても」

「軍人になってるかもしれないし」

「まだ決まってないって」

「じゃあ、決まったら連絡して」

「うん」

「必ずよ」

「分かってる」

 美奈は少しだけ真顔になった。

「じゃあ、元気でね」

「美奈さんも」

 それだけだった。

 美奈はキャリーケースの取っ手を握り、出発ロビーの奥へ歩いていった。

 一度振り返る。

 理沙が手を上げる。

 美奈も手を振った。

 それから人の流れに混じり、姿が見えなくなった。

 理沙は、その場所にしばらく立っていた。

     *

 空港を離れ、市内へ戻る。

 そのまま家へ帰る気にはならなかった。

 まだ夕方には少し早い。

 理沙は途中で降り、湾岸の方へ歩いた。

 通りを抜ける。

 建物の間から海が見える。

 フェリーがゆっくりと水面を進んでいた。

 遠くには低い雲。

 その向こうから傾き始めた日差しが、水面を長く照らしている。

 理沙は歩く速度を落とした。

     *

 三日前の夜。

 美奈と話したことを思い出す。

 かなり遅い時間になってから、まりあの話になった。

 もう十分話したはずなのに、なぜかその話だけは終わらなかった。

「私ね」

 美奈がカフェのテーブルで言った。

「いつか、まりあのことをちゃんと残したいと思ってるの」

 理沙は黙って聞いていた。

「真相を暴くとか、そういう意味じゃなくて」

「うん」

「暴露本みたいなのも違うと思う」

「私も、それは嫌だな」

「でしょ?」

 美奈は頷いた。

「まりあが、どんな人だったのか。どんなふうに歌って、何を考えてたのか。そういうことを、普通に残せたらいいなって」

 理沙は少し考えてから言った。

「私たちが知ってるまりあを?」

「そう」

「それなら……いいかもね」

「理沙ちゃんも、そのとき話してくれる?」

 すぐには答えなかった。

 それでも、最後には頷いた。

「いつかなら」

 美奈は笑った。

「いつか、ね」

     *

 約束と呼べるほど強いものではなかった。

 いつやるのかも決めていない。

 誰に向けて語るのかも分からない。

 そもそも、本当にそんな日が来るのかも分からない。

 それでも。

 まりあのことを、何か刺激的な事件としてではなく。

 同じ時間を過ごした一人の人間として、いつか話すことができたら。

 理沙は、それなら悪くないと思った。

     *

 海沿いの通りを歩き続ける。

 日は、さらに低くなっていた。

 水面の光が、白から橙色へ変わり始めている。

 ベンチに座る人。

 犬を連れて歩く人。

 自転車で通り過ぎる人。

 誰も理沙のことなど気にしていなかった。

 理沙もまた、何をするでもなく歩いていた。

     *

 この一年。

 いろいろな場所へ行った。

 ロサンゼルス。

 交通管制センター。

 カーリーの家。

 シアトル。

 アトランタ。

 そしてまた、シアトル。

 思えば、ずっと動いていた。

 仕事が終われば、次の仕事へ。

 場所が変われば、その場所で生活する。

 知らない人に会い、いつの間にか親しくなる。

 そしてまた、離れる。

 カーリー。

 その娘。

 交通管制センターの同僚たち。

 ダグラス。

 アトランタのスタッフ。

 日本に残してきた人たち。

 湯浅。

 フィリップ。

 島崎。

 美奈。

 まりあ。

 一つの顔を思い出すたび、胸の奥に小さな重みが残った。

     *

 別れたくて別れたわけではない。

 嫌いになったわけでもない。

 ただ、自分が先へ進むたびに、少しずつ後ろに残っていった。

 理沙は立ち止まった。

 海の向こうへ日が傾いている。

 士官学校。

 技術士官。

 軍。

 つい数か月前まで、自分とは何の関係もない世界だった。

 興味半分で申し込んだ。

 審査書類を書いた。

 朝早く起きて走るようになった。

 身体を鍛えた。

 気づけば、その先に進めるかもしれないことを楽しみにしている自分がいる。

 もし審査を通過したら。

 もし入学できたら。

 今までとは、またまったく違う場所へ行くことになる。

 新しい仕事。

 新しい人。

 新しい生活。

 そう考えると、胸が少し高鳴った。

     *

 けれど。

 理沙は沈みかけた夕日を見つめた。

「……それで、いいのかな」

 小さく呟いた。

 軍へ行くことが正しいのか。

 そういうことだけではなかった。

 この先もずっと。

 何かを見つけてはそこへ進み。

 誰かと出会って。

 また次へ行く。

 そのたびに、自分の後ろに何かを残していく。

 それでいいのだろうか。

 そうしなければ前へ進めないのだろうか。

     *

 答えは出なかった。

 そもそも、まだ士官学校へ進めると決まったわけでもない。

 何も起きなければ、三週間後にはまた普通のシステムの仕事を探すつもりだった。

 今考えていること自体が、全部無駄になるかもしれない。

 理沙は少し笑った。

「気が早いよね」

 誰に言うでもなく呟いた。

     *

 太陽が雲の切れ間へ入った。

 一瞬、水面が強く光った。

 橙色の筋が、遠くから理沙の足元近くまで伸びているように見えた。

 理沙はその光を見つめた。

 東京にいたころ。

 ステージの上で歌っていたころ。

 ロサンゼルスで明日の仕事さえ分からなかったころ。

 あのときには、今日の自分など想像もできなかった。

 なら。

 今ここで、先の答えを出そうとしても仕方がないのかもしれない。

 それでも、不安は残った。

 期待も残った。

 未練も残っている。

 全部きれいに整理できるわけではない。

     *

 やがて、日が沈み始めた。

 赤みを帯びた太陽が、少しずつ視界の下へ消えていく。

 理沙は黙って見ていた。

 あと少し。

 半分。

 そして、見えなくなった。

 海の上にはまだ光が残っていた。

 空も明るい。

 それでも、一つの日が終わったことだけは分かった。

     *

 理沙は腕時計を見た。

「帰ろう」

 ベンチから立ち上がる。

 歩き始める。

 答えは、まだ出ていなかった。

 それでいいのかもしれない。

 今日が終わっても、明日は来る。

 理沙は薄暗くなり始めた通りを、自宅の方へ歩いていった。

 背後では、沈んだ夕日の名残だけが、しばらく海を照らしていた。



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