小川美奈を空港で見送ってから、10日ほど経った。
その日の午後。
理沙は短期の仕事から帰宅すると、郵便受けの中に見慣れない封筒が入っているのに気づいた。
国防総省。
差出人を見ただけで、何の書類なのかは分かった。
「来たか……」
部屋へ戻る。
バッグを置き、まだ着替えもしないまま封筒を開いた。
最初の一枚に目を通す。
書類審査。
通過。
理沙はしばらく、その文字を見ていた。
驚いたわけではなかった。
これまでの職歴。
提出した経歴。
技術分野での経験。
少なくとも、書類だけで落とされることはないだろう。
どこかで、そう思っていた。
それでも。
正式な通知として自分の名前の下に面談日時まで書かれていると、急に現実味が増した。
「……本当に面談するんだ」
自分で申し込んだのだから当然だった。
理沙は小さく息を吐いた。
*
同封されていた案内資料を読む。
面談日は、10日後。
場所はロサンゼルス市内の軍施設。
開始時刻。
集合時刻。
入場方法。
本人確認に必要なもの。
持参する書類。
施設入口での確認手続き。
遅刻した場合の扱いまで、簡潔に記載されていた。
「身分証、忘れたら終わりね」
理沙は苦笑した。
普通の会社の面接とは少し違う。
さらにページをめくる。
面談担当者は二名。
一対二の対面形式。
具体的な氏名までは記載されていなかった。
ただし、士官学校の事務担当者ではなく、軍内部で技術部門に従事している士官が担当する、とある。
理沙はその一文を二度読んだ。
「技術の人なんだ……」
少しだけ安心した。
同時に、少しだけ緊張した。
分からないことを適当に答えれば、すぐに見抜かれる相手だろう。
*
その夜。
ロサンゼルス行きの航空券を予約した。
前日に入り、一泊。
面談を終えた翌日にシアトルへ戻る。
ホテルも、軍施設へ移動しやすい場所を選んだ。
予約を終えたところで、理沙は少し考えた。
連絡先を開く。
カーリー。
一年以上前。
ロサンゼルスで最初にできた友人。
理沙は短いメッセージを書いた。
――来週、ロサンゼルスへ行くことになりました。
続けて、
――軍の技術士官の面談です。
送信。
10分ほどして返信が来た。
――え、本当にそこまで進んだの?
理沙は笑った。
――自分でもびっくりしてる。
少し間があいた。
――その日、会える?
しばらく返信がなかった。
やがて。
――ごめん。その日は夜勤なの。
「ああ……」
理沙は小さく声を出した。
残念だった。
せっかくロサンゼルスへ戻るのだから、久しぶりに会いたかった。
すぐに次のメッセージが来る。
――でも面談、頑張って。
さらに、
――リサなら大丈夫。
理沙は画面を見つめた。
「そんな簡単に言うかな」
独り言を言いながらも、口元は少し緩んでいた。
――ありがとう。また今度ね。
送信。
スマートフォンを置いた。
今は、面談に集中する。
そう思った。
*
それからの10日間は、特別なことをしなかった。
朝は走る。
公園でストレッチをする。
昼間は短期の仕事。
夜は軽い筋力トレーニング。
食事。
シャワー。
睡眠。
面談が近づいていることを意識しすぎると、余計なことばかり考えそうだった。
規則正しい生活は、それを防いでくれた。
もちろん、まったく考えなかったわけではない。
ときどき、面談資料を開いた。
経歴。
技術経験。
志望理由。
今後希望する分野。
質問されそうなことを、頭の中で整理する。
システム運用。
インフラ構築。
大規模障害への対応。
チームでの仕事。
後進教育。
話せることはいくらでもあった。
けれど。
その一番先にある問いだけは、どうしても形にならなかった。
*
面談前日。
理沙は午前中の便でロサンゼルスへ向かった。
窓側の席。
飛行機が高度を下げ始める。
眼下に、見覚えのある街並みが広がった。
「あ……」
理沙は窓の外を見た。
ロサンゼルス。
一年前。
ほとんど何も分からないまま到着した街。
仕事もなかった。
知り合いもいなかった。
安いホテルに泊まり、小さなアパートを探した。
夜は外を出歩かないようにしていた。
その同じ街へ。
今度は軍の面談を受けるために戻ってきた。
理沙は少しだけ可笑しくなった。
「一年で、ずいぶん変わるね」
誰に言うでもなく呟いた。
*
空港からホテルへ向かう。
カーリーには、到着したことだけ知らせた。
夜勤前らしく、すぐに短い返信が来た。
――Good luck.
それだけだった。
理沙は画面を見て、小さく笑った。
*
ホテルの部屋は、ごく普通だった。
ベッド。
机。
テレビ。
小さな冷蔵庫。
窓の外には、夕方の街。
理沙は荷物を置き、明日のためのものを机に並べた。
通知書。
身分証。
必要な書類。
筆記具。
交通経路。
集合時刻。
一つずつ確認する。
「大丈夫」
もう一度確認する。
「……大丈夫」
それでも、机から離れて数分すると、また確認したくなる。
理沙は苦笑した。
「やめよう」
書類をまとめ、バッグへ戻した。
*
夕食はホテルの近くで簡単に済ませた。
酒は飲まなかった。
部屋へ戻る。
シャワーを浴びる。
明日の服を用意する。
時計を見る。
まだ、寝るには少し早い。
理沙はベッドへ横になった。
天井を見る。
白い天井。
空調の低い音。
外を走る車の音。
目を閉じる。
すぐには眠れなかった。
*
明日。
何を聞かれるのだろう。
技術経験。
これまで担当したシステム。
障害対応。
チームでの仕事。
リーダー経験。
それなら答えられる。
仕事の話なら、いくらでもできる。
理沙は天井を見ながら、頭の中で想定問答を繰り返した。
――軍で、どのような仕事をしたいですか。
「システム関連……」
口に出してみる。
今までの経験を生かしたい。
通信。
ロジスティック。
インフラ。
情報システム。
それなら自然だ。
でも。
軍へ入ってまで、同じことをしたいのだろうか。
理沙は少し眉を寄せた。
別の技術分野へ進みたいのかもしれない。
航空。
宇宙。
輸送。
制御。
募集要項には、いろいろな分野が書かれていた。
どれも面白そうだった。
しかし、それもまだ興味の段階だった。
*
――将来、どのような士官になりたいですか。
次の想定質問。
「部下を育てる……?」
理沙は呟いた。
シアトルで後任者へ仕事を教えたことは、面白かった。
誰かができるようになる。
自分がいなくても仕事が続く。
それには、確かにやりがいがあった。
でも。
それなら、民間企業でもできる。
理沙は寝返りを打った。
*
システムの仕事。
新しい技術。
人を育てる仕事。
どれも嘘ではない。
どれも自分がやってみたいことだった。
けれど。
何かが足りなかった。
理沙は目を開いた。
暗い部屋。
天井がぼんやり見える。
「……そもそも」
小さく呟いた。
「なんで軍なんだろう」
その瞬間。
頭の中が静かになった。
*
興味半分だった。
本当に、それだけだった。
仕事探しの画面で見つけた。
珍しい求人だった。
技術職。
士官候補。
国防総省。
応募時点で米国籍を問わない。
面白そうだから押した。
落ちたら、それまで。
そんな気持ちだった。
それなのに。
書類が通った。
身体を鍛え始めた。
本審査へ進んだ。
明日、軍の士官と向き合う。
理沙は毛布の上で腕を組んだ。
「……なんで?」
もう一度、自分に聞いた。
*
安定した仕事が欲しいから。
違う。
民間にも仕事はある。
給与がいいから。
それだけでもない。
技術を学びたいから。
それなら他にも方法がある。
新しいことをしたいから。
たぶん、それはある。
でも、それだけでは弱い。
理沙は目を閉じた。
*
東京。
歌。
マリア・エレーナ。
ロサンゼルス。
交通管制センター。
カーリー。
シアトル。
ダグラス。
アトランタ。
これまでの一年が、断片的に浮かんでは消える。
自分は、何をしたいのだろう。
何のために、次へ進もうとしているのだろう。
小川を見送ったあと、夕日を見ながら考えたことまで、また頭へ戻ってきた。
先へ進むたびに、何かを後ろへ残してきた。
それでも。
自分は、また新しい場所へ行こうとしている。
なぜ。
*
時計を見る。
午前零時を過ぎていた。
「寝ないと」
目を閉じる。
しばらくする。
また目を開ける。
1時。
2時。
眠ったような。
眠っていないような。
短い夢を見た気もした。
何を見たのかは覚えていない。
目を閉じるたび、質問が浮かぶ。
――なぜ軍なのですか。
理沙は、そのたびに違う答えを考えた。
どれも間違いではない。
でも。
どれも、しっくりこなかった。
*
やがて。
カーテンの隙間が、わずかに明るくなった。
理沙は目を開けた。
時計を見る。
起きる予定の時刻まで、あと20分。
「……もういいや」
身体を起こした。
眠気はある。
頭の奥が少し重い。
それでも、身体そのものは動いた。
三週間以上続けてきた早起きのおかげかもしれない。
理沙はベッドから降りた。
水を飲む。
シャワーを浴びる。
髪を整える。
服を着る。
*
鏡の前に立った。
少し寝不足の顔。
それでも、思っていたほどひどくはない。
「まあ……こんなものか」
理沙は鏡の中の自分に言った。
最後にバッグを確認する。
通知書。
身分証。
書類。
筆記具。
すべて入っている。
*
部屋を出る前。
理沙は一度だけ立ち止まった。
昨夜。
結局、一番大事な問いの答えは出なかった。
軍で何をしたいのか。
なぜ軍なのか。
その答えを持たないまま、面談へ行く。
「……仕方ないか」
小さく呟いた。
無理に作った答えを言うよりは、その方がいいような気もした。
理沙はドアを開けた。
廊下へ出る。
ドアが背後で閉まった。
ロサンゼルスの朝が、始まっていた。
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