部屋が静かになった。
空調の低い音が、急にはっきり聞こえるようになった。
理沙はクロスリー少佐を見た。
その隣で、ボルショフも黙っている。
誰も急かさない。
それが、かえって長く感じた。
実際には、30秒も経っていなかったのかもしれない。
けれど理沙には、一分にも二分にも思えた。
頭の中に、学校で習った太陽系の図を思い浮かべる。
水星。
金星。
地球。
火星。
木星。
土星。
その先。
将来、太陽系の物流の要所になる惑星。
そんなことを考えたことは、一度もなかった。
火星。
すでに基地の建設が始まっている。
人が住むなら、物流も増えるだろう。
それなら火星が答えとして一番自然なのかもしれない。
しかし、それではあまりにもそのままだ。
クロスリーが聞きたいのは、今すでに起きていることではないような気がした。
さらに先。
技術が進んだ未来。
理沙は、もう一度頭の中で太陽系を眺めた。
そして、一つの名前が浮かんだ。
「木星……ですか?」
口に出したあと、自分でも少し不安になった。
クロスリーの表情は変わらなかった。
「その根拠は?」
すぐに返ってきた。
やっぱり来た。
理沙は一度、息を吸った。
「正直に言うと……最初に思いついたのは、一番大きいからです」
ボルショフがわずかに眉を上げた。
クロスリーは何も言わない。
「でも、それだけだと理由にならないですね」
理沙は続けた。
自分で口にしながら、考える。
システムの仕事をしているときと同じだった。
答えが分からないなら、条件を一つずつ並べる。
「木星そのものに人が住む、という意味ではありません」
「では?」
「その周辺です」
理沙は机の上へ視線を落とした。
「木星にはたくさんの衛星がありますよね」
「ああ」
「将来、その中から資源を利用できる場所が出てくるかもしれない。水とか、燃料になるものとか、建設に使えるものとか」
正確に何がどこにあるのかまでは知らない。
理沙は、それを無理に知っているふりはしなかった。
「木星自体も、ものすごく大きな重力を持っている」
「それをどう使う?」
「……航路です」
理沙は少し考えてから答えた。
「今でも宇宙船は、惑星の重力を使って軌道を変えたり、速度を得たりしますよね」
「重力アシストか」
「はい。それがもっと高度に使えるようになれば、木星の大きな重力は、外側の惑星へ向かう航路の中で重要になるかもしれない」
クロスリーは黙って聞いている。
理沙は続けた。
「資源が取れて、補給ができて、航路の中継にも使えるなら……木星そのものというより、木星圏全体が一つの拠点になる可能性はあると思います」
「どこへ向かう拠点だ?」
「土星とか、それより外側」
一度、言葉を止める。
「もっと先の技術ができれば、太陽系の外へ向かうときも」
そこまで言って、理沙は自分でも少し大きな話をしていると思った。
「かなり先の話ですけど」
そう付け加えた。
*
クロスリーはしばらく理沙の顔を見ていた。
その視線は、相変わらず何を考えているのか分からない。
隣では、ボルショフが二人を交互に見ている。
「木星に大量の資源があることを確認したのか?」
クロスリーが聞いた。
「いいえ」
「衛星について調べたことは?」
「ほとんどありません」
「木星圏を物流拠点にする研究を読んだことは?」
「ないです」
理沙は正直に答えた。
クロスリーが僅かに頷いた。
「では、ほとんど推測だな」
「はい」
「それでも木星だと?」
理沙は少し考えた。
「今のところは」
「なぜ?」
「他にもっといい場所があるなら、変えます」
ボルショフが理沙を見る。
理沙は続けた。
「でも、今ある知識だけで考えるなら、木星が一番可能性がありそうに思えました」
クロスリーの口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのかどうかは分からなかった。
*
「分かった」
クロスリーは椅子へ深く座り直した。
腕を組む。
「では、大嶋さん」
「はい」
「今言った内容を、現実的な計画にしてみろ」
理沙は瞬きをした。
「……計画?」
「木星圏を物流拠点にする場合、何が必要になるのか」
クロスリーは淡々と続けた。
「輸送手段。補給。必要な設備。人員。通信。維持管理。危険要因。地球側との関係」
理沙は黙って聞いていた。
「分からないところは、仮定を置けばいい」
「はい」
「レポートにまとめて」
一度、間があった。
「明日までに私のところへ持ってきてくれ」
ボルショフが顔を上げた。
「少佐?」
理沙もクロスリーを見た。
「明日、ですか?」
「ああ」
「……分かりました」
答えた。
*
自分で言ってから、理沙は頭の中で計算を始めていた。
まずホテルへ戻る。
帰りの飛行機を変更する必要がある。
木星について調べる。
物流。
通信。
航路。
資源。
軍用と民間用を分ける必要があるか。
そもそも、どこから資料を探せばいい。
今日中に骨組みだけでも作る。
夜は寝られないかもしれない。
またか。
そんなことまで考え始めた。
クロスリーは腕を組んだまま、理沙を見ている。
ボルショフは目を丸くしていた。
誰も何も言わない。
また、部屋が静かになった。
*
30秒ほどして。
クロスリーの表情が崩れた。
「冗談だよ」
「……え?」
理沙は一瞬、意味が分からなかった。
「まだ入学も決まっていない人間に、明日までの仕事を出すわけにはいかない」
クロスリーが笑った。
初めて見る笑顔だった。
ボルショフが大きく息を吐いた。
「少佐」
「何だ」
「私も本気だと思いました」
「そうか」
「そうか、じゃありません」
理沙は二人を見た。
身体の力が一気に抜ける。
「……本当にやるところでした」
思わず言った。
「そうだろうな」
クロスリーが答えた。
「航空券まで変えるつもりだったか?」
「今、それを考えてました」
ボルショフが笑った。
「真面目ですね」
「笑わないでください」
理沙も、ようやく少し笑った。
*
クロスリーの表情が、再び落ち着いた。
「だが」
理沙を見る。
「その心意気は、大事にした方がいい」
理沙の笑みが少し消えた。
「はい」
「今の質問に、正解はない」
クロスリーは言った。
「木星が正しいとも思っていない」
「そうなんですか?」
「ああ」
「じゃあ、何のために?」
理沙は聞いた。
クロスリーは少しだけ考えた。
「知らないことを聞かれたとき、どうする人間なのか見たかった」
理沙は黙った。
「知ったふりをするのか」
クロスリーは続ける。
「知りません、と言って終わるのか」
「……」
「それとも、分かるところから条件を並べて考えるのか」
理沙は、先ほどの自分の答えを思い返した。
木星。
大きい。
衛星。
資源。
重力。
航路。
知っていることなど、ほとんどなかった。
ただ、考えただけだった。
「軍の技術開発では」
クロスリーが言う。
「答えが先に用意されていない仕事もある」
理沙は顔を上げた。
「必要になるかどうかさえ、まだ誰にも分からないものを考えることもある」
「未来のために?」
「そう言えば聞こえはいい」
クロスリーは少し笑った。
「大半は、無駄になる」
「無駄?」
「十個考えて、一個使えればいい方だ」
「……そんなものなんですか」
「そんなものだ」
淡々とした言い方だった。
「だが、その一個が必要になったとき、誰も考えていなければ遅い」
その言葉だけは、理沙の耳に強く残った。
*
面談は、それで終わった。
ボルショフとクロスリーに挨拶をする。
「結果は後日連絡します」
ボルショフが言った。
「分かりました。ありがとうございました」
「お疲れさまでした」
理沙は立ち上がった。
最後にクロスリーを見る。
「失礼します」
「ああ」
クロスリーが頷いた。
理沙がドアへ向かう。
「大嶋さん」
背後から呼ばれた。
振り返る。
「はい?」
クロスリーは座ったままだった。
「木星のことは、暇があったら本当に考えてみるといい」
理沙は少しだけ笑った。
「明日までですか?」
クロスリーも笑った。
「期限はない」
「なら、考えてみます」
理沙は一礼した。
部屋を出た。
*
軍施設の外へ出る。
朝より日差しが強くなっていた。
理沙は一度、大きく息を吐いた。
「疲れた……」
眠気も戻ってきた。
昨夜ほとんど眠っていない。
面談が終わった安心感もある。
それでも、不思議と気分は悪くなかった。
*
空港へ向かう途中。
車窓からロサンゼルスの街を見る。
一年前。
この街へ来たときには、仕事を見つけることだけで精いっぱいだった。
どこで暮らすか。
家賃をどうするか。
明日、何をするか。
それだけだった。
今。
自分は、木星の物流について考えさせられている。
「……何なんだろうね」
理沙は小さく笑った。
*
空港。
搭乗を待ちながら、理沙は窓際の席に座った。
滑走路の向こうで、飛行機が一機離陸する。
スマートフォンを開く。
何となく検索画面を出した。
木星。
そこまで入力する。
少し迷う。
結局、検索はしなかった。
画面を閉じた。
今調べ始めたら、本当にレポートを作りそうだった。
*
帰りの飛行機が離陸する。
ロサンゼルスの街が小さくなっていった。
理沙は窓の外を眺めた。
木星。
その名前そのものが、特別に気になっているわけではなかった。
そこへ行きたいとも思わない。
宇宙で働きたいと決めたわけでもない。
ただ。
クロスリーの言葉が残っていた。
まだ必要になるかどうかも分からない。
使われないかもしれない。
それでも、誰かが先に考えておかなければならない仕事。
これまで理沙が携わってきたのは、すでに必要とされているものを作る仕事だった。
交通管制センター。
金融システム。
監視。
障害対応。
そこには、必ず目の前の問題があった。
けれど。
まだ問題にすらなっていないものを考える仕事もある。
*
理沙はシートへ身体を預けた。
昨夜考えていた問いを思い出す。
なぜ軍なのか。
その答えは、まだ出ていない。
今日の面談でも、結局見つからなかった。
ただ。
昨日までは見えていなかったものが、一つだけ見えた気がした。
自分が知っている仕事の、その先。
まだ形になっていない何か。
そこへ続く道が、本当にあるのかどうかは分からない。
あったとしても、今は細すぎて見失いそうだった。
理沙は窓の外を見る。
雲の向こうに、青い空が広がっていた。
その先に何があるのか。
まだ、知らない。
それでも。
ほんの少しだけ。
先を見てみたいと思った。
|