003_25_未来への細い道筋

 部屋が静かになった。

 空調の低い音が、急にはっきり聞こえるようになった。

 理沙はクロスリー少佐を見た。

 その隣で、ボルショフも黙っている。

 誰も急かさない。

 それが、かえって長く感じた。

 実際には、30秒も経っていなかったのかもしれない。

 けれど理沙には、一分にも二分にも思えた。

 頭の中に、学校で習った太陽系の図を思い浮かべる。

 水星。

 金星。

 地球。

 火星。

 木星。

 土星。

 その先。

 将来、太陽系の物流の要所になる惑星。

 そんなことを考えたことは、一度もなかった。

 火星。

 すでに基地の建設が始まっている。

 人が住むなら、物流も増えるだろう。

 それなら火星が答えとして一番自然なのかもしれない。

 しかし、それではあまりにもそのままだ。

 クロスリーが聞きたいのは、今すでに起きていることではないような気がした。

 さらに先。

 技術が進んだ未来。

 理沙は、もう一度頭の中で太陽系を眺めた。

 そして、一つの名前が浮かんだ。

「木星……ですか?」

 口に出したあと、自分でも少し不安になった。

 クロスリーの表情は変わらなかった。

「その根拠は?」

 すぐに返ってきた。

 やっぱり来た。

 理沙は一度、息を吸った。

「正直に言うと……最初に思いついたのは、一番大きいからです」

 ボルショフがわずかに眉を上げた。

 クロスリーは何も言わない。

「でも、それだけだと理由にならないですね」

 理沙は続けた。

 自分で口にしながら、考える。

 システムの仕事をしているときと同じだった。

 答えが分からないなら、条件を一つずつ並べる。

「木星そのものに人が住む、という意味ではありません」

「では?」

「その周辺です」

 理沙は机の上へ視線を落とした。

「木星にはたくさんの衛星がありますよね」

「ああ」

「将来、その中から資源を利用できる場所が出てくるかもしれない。水とか、燃料になるものとか、建設に使えるものとか」

 正確に何がどこにあるのかまでは知らない。

 理沙は、それを無理に知っているふりはしなかった。

「木星自体も、ものすごく大きな重力を持っている」

「それをどう使う?」

「……航路です」

 理沙は少し考えてから答えた。

「今でも宇宙船は、惑星の重力を使って軌道を変えたり、速度を得たりしますよね」

「重力アシストか」

「はい。それがもっと高度に使えるようになれば、木星の大きな重力は、外側の惑星へ向かう航路の中で重要になるかもしれない」

 クロスリーは黙って聞いている。

 理沙は続けた。

「資源が取れて、補給ができて、航路の中継にも使えるなら……木星そのものというより、木星圏全体が一つの拠点になる可能性はあると思います」

「どこへ向かう拠点だ?」

「土星とか、それより外側」

 一度、言葉を止める。

「もっと先の技術ができれば、太陽系の外へ向かうときも」

 そこまで言って、理沙は自分でも少し大きな話をしていると思った。

「かなり先の話ですけど」

 そう付け加えた。

     *

 クロスリーはしばらく理沙の顔を見ていた。

 その視線は、相変わらず何を考えているのか分からない。

 隣では、ボルショフが二人を交互に見ている。

「木星に大量の資源があることを確認したのか?」

 クロスリーが聞いた。

「いいえ」

「衛星について調べたことは?」

「ほとんどありません」

「木星圏を物流拠点にする研究を読んだことは?」

「ないです」

 理沙は正直に答えた。

 クロスリーが僅かに頷いた。

「では、ほとんど推測だな」

「はい」

「それでも木星だと?」

 理沙は少し考えた。

「今のところは」

「なぜ?」

「他にもっといい場所があるなら、変えます」

 ボルショフが理沙を見る。

 理沙は続けた。

「でも、今ある知識だけで考えるなら、木星が一番可能性がありそうに思えました」

 クロスリーの口元が、ほんの少し動いた。

 笑ったのかどうかは分からなかった。

     *

「分かった」

 クロスリーは椅子へ深く座り直した。

 腕を組む。

「では、大嶋さん」

「はい」

「今言った内容を、現実的な計画にしてみろ」

 理沙は瞬きをした。

「……計画?」

「木星圏を物流拠点にする場合、何が必要になるのか」

 クロスリーは淡々と続けた。

「輸送手段。補給。必要な設備。人員。通信。維持管理。危険要因。地球側との関係」

 理沙は黙って聞いていた。

「分からないところは、仮定を置けばいい」

「はい」

「レポートにまとめて」

 一度、間があった。

「明日までに私のところへ持ってきてくれ」

 ボルショフが顔を上げた。

「少佐?」

 理沙もクロスリーを見た。

「明日、ですか?」

「ああ」

「……分かりました」

 答えた。

     *

 自分で言ってから、理沙は頭の中で計算を始めていた。

 まずホテルへ戻る。

 帰りの飛行機を変更する必要がある。

 木星について調べる。

 物流。

 通信。

 航路。

 資源。

 軍用と民間用を分ける必要があるか。

 そもそも、どこから資料を探せばいい。

 今日中に骨組みだけでも作る。

 夜は寝られないかもしれない。

 またか。

 そんなことまで考え始めた。

 クロスリーは腕を組んだまま、理沙を見ている。

 ボルショフは目を丸くしていた。

 誰も何も言わない。

 また、部屋が静かになった。

     *

 30秒ほどして。

 クロスリーの表情が崩れた。

「冗談だよ」

「……え?」

 理沙は一瞬、意味が分からなかった。

「まだ入学も決まっていない人間に、明日までの仕事を出すわけにはいかない」

 クロスリーが笑った。

 初めて見る笑顔だった。

 ボルショフが大きく息を吐いた。

「少佐」

「何だ」

「私も本気だと思いました」

「そうか」

「そうか、じゃありません」

 理沙は二人を見た。

 身体の力が一気に抜ける。

「……本当にやるところでした」

 思わず言った。

「そうだろうな」

 クロスリーが答えた。

「航空券まで変えるつもりだったか?」

「今、それを考えてました」

 ボルショフが笑った。

「真面目ですね」

「笑わないでください」

 理沙も、ようやく少し笑った。

     *

 クロスリーの表情が、再び落ち着いた。

「だが」

 理沙を見る。

「その心意気は、大事にした方がいい」

 理沙の笑みが少し消えた。

「はい」

「今の質問に、正解はない」

 クロスリーは言った。

「木星が正しいとも思っていない」

「そうなんですか?」

「ああ」

「じゃあ、何のために?」

 理沙は聞いた。

 クロスリーは少しだけ考えた。

「知らないことを聞かれたとき、どうする人間なのか見たかった」

 理沙は黙った。

「知ったふりをするのか」

 クロスリーは続ける。

「知りません、と言って終わるのか」

「……」

「それとも、分かるところから条件を並べて考えるのか」

 理沙は、先ほどの自分の答えを思い返した。

 木星。

 大きい。

 衛星。

 資源。

 重力。

 航路。

 知っていることなど、ほとんどなかった。

 ただ、考えただけだった。

「軍の技術開発では」

 クロスリーが言う。

「答えが先に用意されていない仕事もある」

 理沙は顔を上げた。

「必要になるかどうかさえ、まだ誰にも分からないものを考えることもある」

「未来のために?」

「そう言えば聞こえはいい」

 クロスリーは少し笑った。

「大半は、無駄になる」

「無駄?」

「十個考えて、一個使えればいい方だ」

「……そんなものなんですか」

「そんなものだ」

 淡々とした言い方だった。

「だが、その一個が必要になったとき、誰も考えていなければ遅い」

 その言葉だけは、理沙の耳に強く残った。

     *

 面談は、それで終わった。

 ボルショフとクロスリーに挨拶をする。

「結果は後日連絡します」

 ボルショフが言った。

「分かりました。ありがとうございました」

「お疲れさまでした」

 理沙は立ち上がった。

 最後にクロスリーを見る。

「失礼します」

「ああ」

 クロスリーが頷いた。

 理沙がドアへ向かう。

「大嶋さん」

 背後から呼ばれた。

 振り返る。

「はい?」

 クロスリーは座ったままだった。

「木星のことは、暇があったら本当に考えてみるといい」

 理沙は少しだけ笑った。

「明日までですか?」

 クロスリーも笑った。

「期限はない」

「なら、考えてみます」

 理沙は一礼した。

 部屋を出た。

     *

 軍施設の外へ出る。

 朝より日差しが強くなっていた。

 理沙は一度、大きく息を吐いた。

「疲れた……」

 眠気も戻ってきた。

 昨夜ほとんど眠っていない。

 面談が終わった安心感もある。

 それでも、不思議と気分は悪くなかった。

     *

 空港へ向かう途中。

 車窓からロサンゼルスの街を見る。

 一年前。

 この街へ来たときには、仕事を見つけることだけで精いっぱいだった。

 どこで暮らすか。

 家賃をどうするか。

 明日、何をするか。

 それだけだった。

 今。

 自分は、木星の物流について考えさせられている。

「……何なんだろうね」

 理沙は小さく笑った。

     *

 空港。

 搭乗を待ちながら、理沙は窓際の席に座った。

 滑走路の向こうで、飛行機が一機離陸する。

 スマートフォンを開く。

 何となく検索画面を出した。

 木星。

 そこまで入力する。

 少し迷う。

 結局、検索はしなかった。

 画面を閉じた。

 今調べ始めたら、本当にレポートを作りそうだった。

     *

 帰りの飛行機が離陸する。

 ロサンゼルスの街が小さくなっていった。

 理沙は窓の外を眺めた。

 木星。

 その名前そのものが、特別に気になっているわけではなかった。

 そこへ行きたいとも思わない。

 宇宙で働きたいと決めたわけでもない。

 ただ。

 クロスリーの言葉が残っていた。

 まだ必要になるかどうかも分からない。

 使われないかもしれない。

 それでも、誰かが先に考えておかなければならない仕事。

 これまで理沙が携わってきたのは、すでに必要とされているものを作る仕事だった。

 交通管制センター。

 金融システム。

 監視。

 障害対応。

 そこには、必ず目の前の問題があった。

 けれど。

 まだ問題にすらなっていないものを考える仕事もある。

     *

 理沙はシートへ身体を預けた。

 昨夜考えていた問いを思い出す。

 なぜ軍なのか。

 その答えは、まだ出ていない。

 今日の面談でも、結局見つからなかった。

 ただ。

 昨日までは見えていなかったものが、一つだけ見えた気がした。

 自分が知っている仕事の、その先。

 まだ形になっていない何か。

 そこへ続く道が、本当にあるのかどうかは分からない。

 あったとしても、今は細すぎて見失いそうだった。

 理沙は窓の外を見る。

 雲の向こうに、青い空が広がっていた。

 その先に何があるのか。

 まだ、知らない。

 それでも。

 ほんの少しだけ。

 先を見てみたいと思った。



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