003_26_腹を据えて

 その画面を開くのは、二度目だった。

 横浜のマンション。

 契約者情報。

 解約希望日。

 退去後の連絡先。

 精算方法。

 必要事項を一つずつ入力していく。

 最後に表示されたのは、

 **解約を確定する**

 というボタンだった。

 理沙は画面を見つめた。

     *

 以前にも、ここまで来たことがある。

 ロサンゼルスへ来て、まだ一か月も経っていなかったころ。

 仕事はなかなか見つからず、貯金だけが減っていた。

 ロサンゼルスの家賃。

 横浜の家賃。

 二つを同時に払いながら、

 ――いざとなれば、日本へ帰ればいい。

 そう思っていた。

 そのときも、解約画面まで開いた。

 必要事項も入力した。

 あと一度、指を動かせば終わるところまで来た。

 けれど、押せなかった。

 あの部屋は、家というより退路だった。

 帰ろうと思えば帰れる。

 その事実だけを、残しておきたかった。

     *

 理沙はもう一度、画面を見る。

 今回は。

 指が止まらなかった。

 確定。

 押す。

 数秒後。

 手続き完了の表示が出た。

「……終わった」

 それだけだった。

 もっと何か感じると思っていた。

 寂しいとか。

 怖いとか。

 後悔するとか。

 けれど、不思議なくらい何もなかった。

     *

 問題は、中に残っているものだった。

 理沙が渡米するとき、必要最低限の荷物しか持ってこなかった。

 家具。

 食器。

 寝具。

 家電。

 本。

 衣類。

 細かな生活用品。

 その多くが横浜に残されたままだった。

 一年以上。

 誰にも使われずに。

 管理会社と連絡を取り、大家の立ち会いのもと、マスターキーで室内へ入ってもらうことになった。

 整理業者も手配する。

 理沙自身はシアトルにいるため、作業の確認は映像越しに行うことになった。

     *

 数日後。

 スマートフォンの画面に、久しぶりの部屋が映った。

「あ……」

 思わず声が出た。

 玄関。

 短い廊下。

 リビング。

 カーテンの閉じられた窓。

 テーブル。

 棚。

 ソファ。

 時間が止まったようだった。

『こちらの家具は、すべて処分でよろしいですか』

 業者の担当者が聞いた。

「はい」

『冷蔵庫も?』

「お願いします」

『ベッドもですね』

「はい」

 担当者が部屋を歩く。

 画面が揺れる。

 棚の上。

 収納。

 食器棚。

 一つずつ確認していく。

 理沙は淡々と答えた。

「それも処分してください」

「はい、それも」

「そっちも大丈夫です」

     *

 衣類だけは、少し迷った。

 着なくなった服も多かったが、まだ使えるものもある。

 理沙は彩名と直子へ連絡した。

 ――横浜の部屋を引き払うんだけど、服とか欲しいものある?

 彩名からは、すぐに返事が来た。

 ――いらない。自分で買う。

「早いな」

 理沙は笑った。

 直子からは、少し遅れて返事が来た。

 ――気持ちだけもらっとく。処分していいよ。

 それを見て、理沙は業者へ連絡した。

「衣類も全部、お願いします」

『すべて処分ですね』

「はい」

     *

 数日かけて、部屋の中は片づけられていった。

 家具が運び出される。

 段ボールが積まれる。

 不要品が消えていく。

 最後の確認の日。

 画面に映った部屋には、ほとんど何も残っていなかった。

 床。

 壁。

 窓。

 空になった収納。

 自分がそこで暮らしていた痕跡は、驚くほど少なかった。

『こちらで作業は終了になります』

 担当者が言った。

「ありがとうございます」

『鍵は管理会社へ返却します』

「お願いします」

 通話が終わった。

     *

 理沙は、しばらく黒くなった画面を見ていた。

 物には、思ったほど未練がなかった。

 あのテーブル。

 あのベッド。

 あの服。

 それらがなくなることは、別に惜しくない。

 理沙にとって重要だったのは、そこではなかった。

 横浜に部屋がある。

 鍵がある。

 帰れば、またそこから生活を始められる。

 その可能性だった。

 だから残していた。

 家具ではない。

 部屋ですらない。

 **帰るという選択肢を、家賃を払いながら残していた。**

     *

 数日後。

 正式な契約終了通知が届いた。

 理沙は画面を開く。

 契約終了日。

 精算額。

 返金。

 追加費用。

 整理業者の費用まで含めると、それなりの金額になった。

「高いなあ……」

 思わず呟いた。

 けれど、後悔はしなかった。

 これで。

 本当に横浜の部屋はなくなった。

     *

 理沙は窓の外を見た。

 シアトル。

 今住んでいる部屋も、ずっと暮らす場所ではない。

 次にどこへ行くのかも分からない。

 士官学校へ行くことになるかもしれない。

 別の州で、またシステムの仕事を始めるかもしれない。

 場合によっては、シアトルに残るかもしれない。

 定まった家と呼べる場所は、まだない。

 それでも。

 以前ほど不安ではなかった。

     *

 一年前。

 ロサンゼルスで仕事を探していたころ。

 採用されなければ、生きていけないと思っていた。

 仕事が見つからなければ、日本へ帰るしかない。

 そう考えていた。

 今は違う。

 交通管制センターで働いた。

 夜勤もした。

 新しいシステムの切り替えにも参加した。

 シアトルでは、もっと難しい仕事を任された。

 アトランタでは、現地へ飛ばされて、その場で判断し続けた。

 最後には、人へ教える仕事までした。

 その経験は、もう消えない。

 士官学校に落ちても。

 技術士官になれなくても。

 またシステムの仕事を探せばいい。

 どこかで仕事はできる。

 少なくとも、食べていくことはできる。

 理沙には、そう思えるようになっていた。

     *

「……なら、もういいか」

 誰に言うでもなく呟いた。

 横浜の部屋を残しておく理由は、もうなかった。

 帰る場所がなくなったのではない。

 帰らなくても大丈夫になった。

 たぶん、その方が近かった。

     *

 それでも。

 別のことは、気になっていた。

 面談から戻って、何日か経っている。

 まだ結果は届かない。

 アルバイトから帰宅すると、理沙はまず郵便受けを見るようになっていた。

 広告。

 請求書。

 店舗からの案内。

 求人関係の郵便。

 その中に、国防総省からの封筒がないか。

 毎回、確認する。

     *

 面談の最後。

 クロスリー少佐が言った言葉を思い出す。

 ――その心意気は、大事にした方がいい。

 あれは、どういう意味だったのだろう。

 評価された。

 そう受け取ってもいいのかもしれない。

 けれど。

 ただの助言だったのかもしれない。

 あるいは、

 ――面白い人間ではあるが、もう少し様子を見よう。

 その程度だったのかもしれない。

「考えても分からないか」

 理沙は独り言を言った。

     *

 士官学校に入れなくても、困らない。

 そのときは、また仕事を探す。

 ロサンゼルスでも。

 テキサスでも。

 東海岸でも。

 選択肢はいくつもある。

 そう決めた。

 横浜の部屋も解約した。

 もう、生き方について迷っているわけではない。

 それなのに。

 アルバイトの帰り道。

 アパートが見えてくると、少しだけ歩く速度が上がる。

 エントランスへ入る。

 郵便受けを開ける。

 その瞬間だけは、毎日少し緊張した。

     *

 その日も。

 理沙は仕事を終えて帰宅した。

 郵便受けの鍵を開ける。

 中を見る。

 広告が二枚。

 公共料金の通知。

 それだけだった。

「……まだか」

 小さく呟いた。

 郵便受けを閉める。

     *

 エレベーターを待ちながら、理沙は少し笑った。

 落ちても大丈夫。

 それは本当だった。

 でも。

 受かっていてほしい。

 それもまた、本当だった。

 理沙はその二つを、無理に一つにしようとは思わなかった。

 エレベーターの扉が開く。

 中へ入る。

 ボタンを押す。

 扉が閉まった。

 横浜へ戻るために残していた場所は、もうない。

 それでも理沙は、不思議なくらい落ち着いていた。

 あとは。

 届くものを待つだけだった。



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