その画面を開くのは、二度目だった。
横浜のマンション。
契約者情報。
解約希望日。
退去後の連絡先。
精算方法。
必要事項を一つずつ入力していく。
最後に表示されたのは、
**解約を確定する**
というボタンだった。
理沙は画面を見つめた。
*
以前にも、ここまで来たことがある。
ロサンゼルスへ来て、まだ一か月も経っていなかったころ。
仕事はなかなか見つからず、貯金だけが減っていた。
ロサンゼルスの家賃。
横浜の家賃。
二つを同時に払いながら、
――いざとなれば、日本へ帰ればいい。
そう思っていた。
そのときも、解約画面まで開いた。
必要事項も入力した。
あと一度、指を動かせば終わるところまで来た。
けれど、押せなかった。
あの部屋は、家というより退路だった。
帰ろうと思えば帰れる。
その事実だけを、残しておきたかった。
*
理沙はもう一度、画面を見る。
今回は。
指が止まらなかった。
確定。
押す。
数秒後。
手続き完了の表示が出た。
「……終わった」
それだけだった。
もっと何か感じると思っていた。
寂しいとか。
怖いとか。
後悔するとか。
けれど、不思議なくらい何もなかった。
*
問題は、中に残っているものだった。
理沙が渡米するとき、必要最低限の荷物しか持ってこなかった。
家具。
食器。
寝具。
家電。
本。
衣類。
細かな生活用品。
その多くが横浜に残されたままだった。
一年以上。
誰にも使われずに。
管理会社と連絡を取り、大家の立ち会いのもと、マスターキーで室内へ入ってもらうことになった。
整理業者も手配する。
理沙自身はシアトルにいるため、作業の確認は映像越しに行うことになった。
*
数日後。
スマートフォンの画面に、久しぶりの部屋が映った。
「あ……」
思わず声が出た。
玄関。
短い廊下。
リビング。
カーテンの閉じられた窓。
テーブル。
棚。
ソファ。
時間が止まったようだった。
『こちらの家具は、すべて処分でよろしいですか』
業者の担当者が聞いた。
「はい」
『冷蔵庫も?』
「お願いします」
『ベッドもですね』
「はい」
担当者が部屋を歩く。
画面が揺れる。
棚の上。
収納。
食器棚。
一つずつ確認していく。
理沙は淡々と答えた。
「それも処分してください」
「はい、それも」
「そっちも大丈夫です」
*
衣類だけは、少し迷った。
着なくなった服も多かったが、まだ使えるものもある。
理沙は彩名と直子へ連絡した。
――横浜の部屋を引き払うんだけど、服とか欲しいものある?
彩名からは、すぐに返事が来た。
――いらない。自分で買う。
「早いな」
理沙は笑った。
直子からは、少し遅れて返事が来た。
――気持ちだけもらっとく。処分していいよ。
それを見て、理沙は業者へ連絡した。
「衣類も全部、お願いします」
『すべて処分ですね』
「はい」
*
数日かけて、部屋の中は片づけられていった。
家具が運び出される。
段ボールが積まれる。
不要品が消えていく。
最後の確認の日。
画面に映った部屋には、ほとんど何も残っていなかった。
床。
壁。
窓。
空になった収納。
自分がそこで暮らしていた痕跡は、驚くほど少なかった。
『こちらで作業は終了になります』
担当者が言った。
「ありがとうございます」
『鍵は管理会社へ返却します』
「お願いします」
通話が終わった。
*
理沙は、しばらく黒くなった画面を見ていた。
物には、思ったほど未練がなかった。
あのテーブル。
あのベッド。
あの服。
それらがなくなることは、別に惜しくない。
理沙にとって重要だったのは、そこではなかった。
横浜に部屋がある。
鍵がある。
帰れば、またそこから生活を始められる。
その可能性だった。
だから残していた。
家具ではない。
部屋ですらない。
**帰るという選択肢を、家賃を払いながら残していた。**
*
数日後。
正式な契約終了通知が届いた。
理沙は画面を開く。
契約終了日。
精算額。
返金。
追加費用。
整理業者の費用まで含めると、それなりの金額になった。
「高いなあ……」
思わず呟いた。
けれど、後悔はしなかった。
これで。
本当に横浜の部屋はなくなった。
*
理沙は窓の外を見た。
シアトル。
今住んでいる部屋も、ずっと暮らす場所ではない。
次にどこへ行くのかも分からない。
士官学校へ行くことになるかもしれない。
別の州で、またシステムの仕事を始めるかもしれない。
場合によっては、シアトルに残るかもしれない。
定まった家と呼べる場所は、まだない。
それでも。
以前ほど不安ではなかった。
*
一年前。
ロサンゼルスで仕事を探していたころ。
採用されなければ、生きていけないと思っていた。
仕事が見つからなければ、日本へ帰るしかない。
そう考えていた。
今は違う。
交通管制センターで働いた。
夜勤もした。
新しいシステムの切り替えにも参加した。
シアトルでは、もっと難しい仕事を任された。
アトランタでは、現地へ飛ばされて、その場で判断し続けた。
最後には、人へ教える仕事までした。
その経験は、もう消えない。
士官学校に落ちても。
技術士官になれなくても。
またシステムの仕事を探せばいい。
どこかで仕事はできる。
少なくとも、食べていくことはできる。
理沙には、そう思えるようになっていた。
*
「……なら、もういいか」
誰に言うでもなく呟いた。
横浜の部屋を残しておく理由は、もうなかった。
帰る場所がなくなったのではない。
帰らなくても大丈夫になった。
たぶん、その方が近かった。
*
それでも。
別のことは、気になっていた。
面談から戻って、何日か経っている。
まだ結果は届かない。
アルバイトから帰宅すると、理沙はまず郵便受けを見るようになっていた。
広告。
請求書。
店舗からの案内。
求人関係の郵便。
その中に、国防総省からの封筒がないか。
毎回、確認する。
*
面談の最後。
クロスリー少佐が言った言葉を思い出す。
――その心意気は、大事にした方がいい。
あれは、どういう意味だったのだろう。
評価された。
そう受け取ってもいいのかもしれない。
けれど。
ただの助言だったのかもしれない。
あるいは、
――面白い人間ではあるが、もう少し様子を見よう。
その程度だったのかもしれない。
「考えても分からないか」
理沙は独り言を言った。
*
士官学校に入れなくても、困らない。
そのときは、また仕事を探す。
ロサンゼルスでも。
テキサスでも。
東海岸でも。
選択肢はいくつもある。
そう決めた。
横浜の部屋も解約した。
もう、生き方について迷っているわけではない。
それなのに。
アルバイトの帰り道。
アパートが見えてくると、少しだけ歩く速度が上がる。
エントランスへ入る。
郵便受けを開ける。
その瞬間だけは、毎日少し緊張した。
*
その日も。
理沙は仕事を終えて帰宅した。
郵便受けの鍵を開ける。
中を見る。
広告が二枚。
公共料金の通知。
それだけだった。
「……まだか」
小さく呟いた。
郵便受けを閉める。
*
エレベーターを待ちながら、理沙は少し笑った。
落ちても大丈夫。
それは本当だった。
でも。
受かっていてほしい。
それもまた、本当だった。
理沙はその二つを、無理に一つにしようとは思わなかった。
エレベーターの扉が開く。
中へ入る。
ボタンを押す。
扉が閉まった。
横浜へ戻るために残していた場所は、もうない。
それでも理沙は、不思議なくらい落ち着いていた。
あとは。
届くものを待つだけだった。
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