その日の夕方。
アルバイトを終えてアパートへ戻った理沙は、いつものように郵便受けを開けた。
広告。
請求書。
薄い封筒が二通。
そして、その奥。
白い大きな封筒が入っていた。
理沙の手が止まった。
取り出す。
厚い。
送り元を見る。
国防総省。
「……来た」
声に出した。
昨日まで何度も想像していた。
もし届くなら、たぶんこういう封筒だろう。
そう思っていたはずなのに。
実際に手の中へ収まると、予想していたものとは少し違った。
嬉しい。
たぶん、そうなのだと思う。
けれど、それより先に感じたのは、重さだった。
紙の重量ではない。
これを開けば、何かが本当に先へ進む。
そんな重さだった。
*
理沙は封筒を持ったままエレベーターへ乗った。
部屋へ入る。
バッグを置く。
テーブルの上に封筒を置いた。
すぐには開けなかった。
水を一口飲む。
上着を脱ぐ。
もう一度、封筒を見る。
「何やってるんだろ」
少し笑った。
待っていたのは自分だった。
理沙は椅子へ座り、封を切った。
*
中から、何枚もの書類が出てきた。
最初に目に入ったのは、透明なホルダーに入った一枚だった。
理沙はそれを取り出す。
氏名。
受付番号。
入校資格。
開始日。
所属予定課程。
文章を上から読む。
途中で一度止まる。
もう一度読む。
そして、冒頭へ戻った。
「……受かったんだ」
ようやく言葉になった。
理沙は椅子の背へ身体を預けた。
大声を出すこともなかった。
拳を握ることもなかった。
ただ、その一枚をしばらく見ていた。
*
横浜の部屋を解約すると決めたとき。
士官学校へ入れなくてもいいと思った。
そのときは、またシステムの仕事をすればいい。
米国で生きていく。
それだけは、先に決めた。
だから、この通知に人生を決めてもらったわけではない。
それでも。
通っていてほしいと思っていた。
その気持ちも嘘ではなかった。
「そっか……」
理沙はもう一度、通知を見る。
今度は少しだけ笑った。
*
封筒の中身は、それだけではなかった。
正式な入学許可に関する文書。
入校手続き。
本人確認。
健康状態の申告。
身分登録。
基礎訓練課程の案内。
寮生活について。
携行品。
禁止されている持ち物。
入校当日の集合時刻。
施設へのアクセス。
緊急連絡先。
「多いな……」
一枚読む。
次を読む。
さらに次。
気になる箇所には印を付ける。
*
今回の入校者。
60名。
理沙はそこで手を止めた。
「60人」
思っていたより多いような。
少ないような。
よく分からなかった。
続いて読む。
最初の七か月。
全寮制。
基礎訓練課程。
生活規律。
体力訓練。
基礎軍事教育。
士官として必要になる共通教育。
専門課程については、その後の適性や配属予定によって決まる。
理沙は少し眉を寄せた。
「七か月……」
以前、自分が勝手に想像した軍隊生活を思い出した。
早朝。
体力訓練。
授業。
訓練。
夜の予習。
実際にそこまで同じなのかは、まだ分からない。
ただ。
少なくとも、気楽な学校生活ではなさそうだった。
*
読み進めているうちに、外が暗くなった。
途中で簡単な夕食を作る。
食べながらも書類を読む。
またテーブルへ戻る。
時計を見る。
「もうこんな時間?」
気づけば、普段なら寝る準備を始める時刻になっていた。
入学許可証を受け取ったというのに。
その日の大半は、書類を読んで終わった。
理沙は苦笑した。
「現実って、こんなものか」
*
入校日は、20日後。
それを見た瞬間から、生活の片づけが始まった。
*
まず、アルバイト先。
「今月で辞めたいんです」
店長は少し驚いた顔をした。
「次の仕事?」
「学校です」
「学校?」
「ちょっと特殊なところ」
「またシステム?」
「たぶん、それだけじゃないです」
説明すると、店長はさらに驚いた。
「軍?」
「はい」
「リサが?」
「みんな同じこと言いますね」
理沙は笑った。
残りの勤務日を調整する。
短い期間だった。
それでも、生活のリズムを維持するには十分役に立った。
最後の日。
同僚たちに簡単に挨拶をする。
「頑張って」
「ありがとう」
それだけだった。
*
次は、アパート。
解約の手続きをする。
今回は迷わなかった。
そもそも、シアトルの部屋には横浜ほど多くの物がない。
米国へ来てから、理沙は大きな家具をあまり買わなくなっていた。
必要なら買う。
移動するときには手放す。
そんな生活に慣れていた。
*
それでも、片づけ始めれば物は出てきた。
服。
靴。
本。
調理器具。
仕事関係の古い資料。
小物。
使わなくなった機器。
理沙は床に三つの場所を作った。
持っていくもの。
処分するもの。
まだ迷うもの。
最初は「迷うもの」が多かった。
数日後。
その山は、ほとんど「処分するもの」へ移っていた。
*
士官学校へ持ち込める私物にも限りがあった。
寮生活。
制服や訓練用品の多くは支給される。
だから、必要なのは本当に身の回りのものだけだった。
衣類。
洗面用品。
端末。
必要書類。
最低限の私物。
理沙は一つずつ選んだ。
「これもいらないか」
棚へ戻す。
いや。
戻しても仕方がない。
処分する箱へ入れた。
*
部屋の中が少しずつ広くなっていった。
テーブルの上から物が消える。
棚が空になる。
壁際にあった箱もなくなる。
最後まで残ったのは、大きなキャリーケース一つとリュックサックだった。
理沙はそれを見た。
「……これだけか」
一年前。
日本を離れたときも、荷物は多くなかった。
ただ、あのときとは意味が違う。
あのころは、何が必要になるのか分からなかった。
どこに住むのかも分からなかった。
とりあえず持てるものだけを持ってきた。
今は違う。
必要なものを考えた。
いらないものを捨てた。
その結果。
これだけになった。
*
手続きの途中で、資金も確認した。
銀行口座。
手元の現金。
今後必要になる費用。
寮生活に入れば、少なくとも住む場所には困らない。
食事についても、当面大きな心配はなさそうだった。
手持ちの資金は、今のアパートの家賃に換算すれば数か月分ほど残っている。
「まあ、大丈夫か」
理沙は画面を閉じた。
*
残るのは、士官学校までの移動だった。
飛行機を調べる。
早い。
当然だった。
料金を見る。
「うーん……」
払えない金額ではない。
次に、長距離バスを調べた。
時間はかかる。
かなりかかる。
乗り換えもある。
ただし、安い。
理沙は日程表を見る。
入校日までには余裕があった。
急いで到着する必要もない。
むしろ、早く着きすぎても困る。
「バスでいいか」
そう決めた。
深い理由はなかった。
時間はある。
少し安い。
それだけだった。
*
20日という時間は、意外と早く過ぎた。
九月も、終わりに近づいていた。
*
出発の朝。
まだ外は暗かった。
理沙は最後に部屋を見渡した。
ほとんど何もない。
空になった棚。
何も載っていないテーブル。
ベッドもすでに簡素なものしか残していない。
窓の外には、シアトルの早朝の街。
理沙は少しだけ立ち止まった。
*
ここで働いた。
ここで悩んだ。
ダグラスに何度もやり直しを命じられた。
アトランタへ飛ばされた。
後任へ仕事を教えた。
美奈とも再会した。
軍の面談へ行く前の夜も、ここから出発した。
ずいぶんいろいろあった。
でも。
ここが故郷になったという感覚はなかった。
だからといって、何も感じないわけでもない。
「お世話になりました」
誰もいない部屋へ、理沙は小さく言った。
少し可笑しくなった。
*
鍵を返す。
手続きを終える。
大きなキャリーケースを引く。
背中にはリュックサック。
外へ出た。
早朝の空気が、思っていたより冷たかった。
「寒……」
思わず肩をすくめる。
夏の終わり。
つい最近まで暑かったのに。
季節はもう変わり始めていた。
*
理沙は歩き始めた。
まだ人の少ない通り。
遠くでバスが走っている。
店のシャッターは閉じたまま。
空だけが、少しずつ明るくなっている。
長距離バスターミナルまで、それほど遠くはない。
キャリーケースの車輪が、歩道の継ぎ目を越えるたびに小さな音を立てた。
*
士官学校へ入れる。
正式に決まった。
七か月の基礎訓練が始まる。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
どんな人間と出会うのか。
どんな生活になるのか。
どこへ配属されるのか。
何一つ分からない。
それでも。
以前のような不安はなかった。
分からないなら。
行ってから考えればいい。
理沙はそう思った。
*
角を曲がる。
前方に、長距離バスターミナルの灯りが見えた。
早朝にもかかわらず、何台もの大型バスが並んでいる。
行先表示。
荷物を持った乗客。
エンジンの低い音。
理沙は一度立ち止まった。
キャリーケースの取っ手を握り直す。
「さて」
小さく息を吐く。
そして、ターミナルへ向かって歩き始めた。
|