003_27_合格通知

 その日の夕方。

 アルバイトを終えてアパートへ戻った理沙は、いつものように郵便受けを開けた。

 広告。

 請求書。

 薄い封筒が二通。

 そして、その奥。

 白い大きな封筒が入っていた。

 理沙の手が止まった。

 取り出す。

 厚い。

 送り元を見る。

 国防総省。

「……来た」

 声に出した。

 昨日まで何度も想像していた。

 もし届くなら、たぶんこういう封筒だろう。

 そう思っていたはずなのに。

 実際に手の中へ収まると、予想していたものとは少し違った。

 嬉しい。

 たぶん、そうなのだと思う。

 けれど、それより先に感じたのは、重さだった。

 紙の重量ではない。

 これを開けば、何かが本当に先へ進む。

 そんな重さだった。

     *

 理沙は封筒を持ったままエレベーターへ乗った。

 部屋へ入る。

 バッグを置く。

 テーブルの上に封筒を置いた。

 すぐには開けなかった。

 水を一口飲む。

 上着を脱ぐ。

 もう一度、封筒を見る。

「何やってるんだろ」

 少し笑った。

 待っていたのは自分だった。

 理沙は椅子へ座り、封を切った。

     *

 中から、何枚もの書類が出てきた。

 最初に目に入ったのは、透明なホルダーに入った一枚だった。

 理沙はそれを取り出す。

 氏名。

 受付番号。

 入校資格。

 開始日。

 所属予定課程。

 文章を上から読む。

 途中で一度止まる。

 もう一度読む。

 そして、冒頭へ戻った。

「……受かったんだ」

 ようやく言葉になった。

 理沙は椅子の背へ身体を預けた。

 大声を出すこともなかった。

 拳を握ることもなかった。

 ただ、その一枚をしばらく見ていた。

     *

 横浜の部屋を解約すると決めたとき。

 士官学校へ入れなくてもいいと思った。

 そのときは、またシステムの仕事をすればいい。

 米国で生きていく。

 それだけは、先に決めた。

 だから、この通知に人生を決めてもらったわけではない。

 それでも。

 通っていてほしいと思っていた。

 その気持ちも嘘ではなかった。

「そっか……」

 理沙はもう一度、通知を見る。

 今度は少しだけ笑った。

     *

 封筒の中身は、それだけではなかった。

 正式な入学許可に関する文書。

 入校手続き。

 本人確認。

 健康状態の申告。

 身分登録。

 基礎訓練課程の案内。

 寮生活について。

 携行品。

 禁止されている持ち物。

 入校当日の集合時刻。

 施設へのアクセス。

 緊急連絡先。

「多いな……」

 一枚読む。

 次を読む。

 さらに次。

 気になる箇所には印を付ける。

     *

 今回の入校者。

 60名。

 理沙はそこで手を止めた。

「60人」

 思っていたより多いような。

 少ないような。

 よく分からなかった。

 続いて読む。

 最初の七か月。

 全寮制。

 基礎訓練課程。

 生活規律。

 体力訓練。

 基礎軍事教育。

 士官として必要になる共通教育。

 専門課程については、その後の適性や配属予定によって決まる。

 理沙は少し眉を寄せた。

「七か月……」

 以前、自分が勝手に想像した軍隊生活を思い出した。

 早朝。

 体力訓練。

 授業。

 訓練。

 夜の予習。

 実際にそこまで同じなのかは、まだ分からない。

 ただ。

 少なくとも、気楽な学校生活ではなさそうだった。

     *

 読み進めているうちに、外が暗くなった。

 途中で簡単な夕食を作る。

 食べながらも書類を読む。

 またテーブルへ戻る。

 時計を見る。

「もうこんな時間?」

 気づけば、普段なら寝る準備を始める時刻になっていた。

 入学許可証を受け取ったというのに。

 その日の大半は、書類を読んで終わった。

 理沙は苦笑した。

「現実って、こんなものか」

     *

 入校日は、20日後。

 それを見た瞬間から、生活の片づけが始まった。

     *

 まず、アルバイト先。

「今月で辞めたいんです」

 店長は少し驚いた顔をした。

「次の仕事?」

「学校です」

「学校?」

「ちょっと特殊なところ」

「またシステム?」

「たぶん、それだけじゃないです」

 説明すると、店長はさらに驚いた。

「軍?」

「はい」

「リサが?」

「みんな同じこと言いますね」

 理沙は笑った。

 残りの勤務日を調整する。

 短い期間だった。

 それでも、生活のリズムを維持するには十分役に立った。

 最後の日。

 同僚たちに簡単に挨拶をする。

「頑張って」

「ありがとう」

 それだけだった。

     *

 次は、アパート。

 解約の手続きをする。

 今回は迷わなかった。

 そもそも、シアトルの部屋には横浜ほど多くの物がない。

 米国へ来てから、理沙は大きな家具をあまり買わなくなっていた。

 必要なら買う。

 移動するときには手放す。

 そんな生活に慣れていた。

     *

 それでも、片づけ始めれば物は出てきた。

 服。

 靴。

 本。

 調理器具。

 仕事関係の古い資料。

 小物。

 使わなくなった機器。

 理沙は床に三つの場所を作った。

 持っていくもの。

 処分するもの。

 まだ迷うもの。

 最初は「迷うもの」が多かった。

 数日後。

 その山は、ほとんど「処分するもの」へ移っていた。

     *

 士官学校へ持ち込める私物にも限りがあった。

 寮生活。

 制服や訓練用品の多くは支給される。

 だから、必要なのは本当に身の回りのものだけだった。

 衣類。

 洗面用品。

 端末。

 必要書類。

 最低限の私物。

 理沙は一つずつ選んだ。

「これもいらないか」

 棚へ戻す。

 いや。

 戻しても仕方がない。

 処分する箱へ入れた。

     *

 部屋の中が少しずつ広くなっていった。

 テーブルの上から物が消える。

 棚が空になる。

 壁際にあった箱もなくなる。

 最後まで残ったのは、大きなキャリーケース一つとリュックサックだった。

 理沙はそれを見た。

「……これだけか」

 一年前。

 日本を離れたときも、荷物は多くなかった。

 ただ、あのときとは意味が違う。

 あのころは、何が必要になるのか分からなかった。

 どこに住むのかも分からなかった。

 とりあえず持てるものだけを持ってきた。

 今は違う。

 必要なものを考えた。

 いらないものを捨てた。

 その結果。

 これだけになった。

     *

 手続きの途中で、資金も確認した。

 銀行口座。

 手元の現金。

 今後必要になる費用。

 寮生活に入れば、少なくとも住む場所には困らない。

 食事についても、当面大きな心配はなさそうだった。

 手持ちの資金は、今のアパートの家賃に換算すれば数か月分ほど残っている。

「まあ、大丈夫か」

 理沙は画面を閉じた。

     *

 残るのは、士官学校までの移動だった。

 飛行機を調べる。

 早い。

 当然だった。

 料金を見る。

「うーん……」

 払えない金額ではない。

 次に、長距離バスを調べた。

 時間はかかる。

 かなりかかる。

 乗り換えもある。

 ただし、安い。

 理沙は日程表を見る。

 入校日までには余裕があった。

 急いで到着する必要もない。

 むしろ、早く着きすぎても困る。

「バスでいいか」

 そう決めた。

 深い理由はなかった。

 時間はある。

 少し安い。

 それだけだった。

     *

 20日という時間は、意外と早く過ぎた。

 九月も、終わりに近づいていた。

     *

 出発の朝。

 まだ外は暗かった。

 理沙は最後に部屋を見渡した。

 ほとんど何もない。

 空になった棚。

 何も載っていないテーブル。

 ベッドもすでに簡素なものしか残していない。

 窓の外には、シアトルの早朝の街。

 理沙は少しだけ立ち止まった。

     *

 ここで働いた。

 ここで悩んだ。

 ダグラスに何度もやり直しを命じられた。

 アトランタへ飛ばされた。

 後任へ仕事を教えた。

 美奈とも再会した。

 軍の面談へ行く前の夜も、ここから出発した。

 ずいぶんいろいろあった。

 でも。

 ここが故郷になったという感覚はなかった。

 だからといって、何も感じないわけでもない。

「お世話になりました」

 誰もいない部屋へ、理沙は小さく言った。

 少し可笑しくなった。

     *

 鍵を返す。

 手続きを終える。

 大きなキャリーケースを引く。

 背中にはリュックサック。

 外へ出た。

 早朝の空気が、思っていたより冷たかった。

「寒……」

 思わず肩をすくめる。

 夏の終わり。

 つい最近まで暑かったのに。

 季節はもう変わり始めていた。

     *

 理沙は歩き始めた。

 まだ人の少ない通り。

 遠くでバスが走っている。

 店のシャッターは閉じたまま。

 空だけが、少しずつ明るくなっている。

 長距離バスターミナルまで、それほど遠くはない。

 キャリーケースの車輪が、歩道の継ぎ目を越えるたびに小さな音を立てた。

     *

 士官学校へ入れる。

 正式に決まった。

 七か月の基礎訓練が始まる。

 その先に何があるのかは、まだ分からない。

 どんな人間と出会うのか。

 どんな生活になるのか。

 どこへ配属されるのか。

 何一つ分からない。

 それでも。

 以前のような不安はなかった。

 分からないなら。

 行ってから考えればいい。

 理沙はそう思った。

     *

 角を曲がる。

 前方に、長距離バスターミナルの灯りが見えた。

 早朝にもかかわらず、何台もの大型バスが並んでいる。

 行先表示。

 荷物を持った乗客。

 エンジンの低い音。

 理沙は一度立ち止まった。

 キャリーケースの取っ手を握り直す。

「さて」

 小さく息を吐く。

 そして、ターミナルへ向かって歩き始めた。



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