早朝のバスターミナルには、すでに何台もの大型バスが並んでいた。
エンジンの低い音。
キャリーケースを引く音。
まだ完全に目を覚ましていないような乗客たちの声。
理沙は乗車券を確認し、大きなキャリーケースを荷物室へ預けた。
背中にはリュックサック。
それだけだった。
「サンフランシスコ方面はこちらです」
係員の声に従って列へ並ぶ。
やがて乗車が始まった。
*
理沙が予約したのは窓側だった。
席番号を確認して座る。
リュックを足元へ置く。
シートに身体を預ける。
隣の席は空いていた。
「ラッキー」
小さく呟く。
バスの中はほとんど埋まっていた。
大きな荷物を抱えた学生らしい若者。
仕事へ向かうような服装の男。
家族連れ。
年配の夫婦。
理沙は何となく車内を見回した。
これだけ人がいるのだから、途中から誰かが隣へ乗ってくるかもしれない。
どんな人だろう。
少し気になった。
それでも、今は一席空いている。
理沙は窓へ顔を向けた。
*
バスが動き始めた。
まだ薄暗いシアトルの街が、ゆっくり後ろへ流れていく。
何度も通った道。
見覚えのある交差点。
遠くに見えるビル。
この街で一年近く暮らしていたというのに、こうして離れていく景色を見ると、急によそ行きの街に見えた。
理沙は感傷的になっている自分に少しだけ気づいた。
「もう出たんだから」
小さく言う。
窓ガラスには、朝の湿気が薄く残っていた。
*
市街地を抜ける。
やがて建物の間隔が広くなり、大きな工場や倉庫が目につくようになった。
航空機関連の工場らしい広大な敷地が見えてくる。
巨大な建屋。
駐機場。
完成したばかりなのか、塗装の新しい旅客機が何機か並んでいる。
理沙は何となく眺めていた。
そのとき。
「……あれ?」
敷地の奥。
旅客機とは明らかに形の違う、白い巨大な物体が見えた。
横倒しになった状態で、大型の移動台車に載せられている。
円錐に近い形。
翼らしいものは、ほとんど見えない。
周囲には作業用車両と、人間が小さく見えるほどの設備。
バスは、その敷地の脇を走り続ける。
見る角度が少しずつ変わった。
白い機体の後ろ側が見える。
そこには、小さな円形の開口部が何列も並んでいた。
「……ロケット?」
理沙は窓へ少し顔を寄せた。
ただの航空機には見えない。
けれど、打ち上げ用のロケットとしては形が妙だった。
宇宙船。
輸送機。
何なのかは分からない。
*
クロスリー少佐の声を思い出した。
――人間が行く場所には、必ず物が必要になる。
――継続して届けられることだ。
宇宙への大量輸送。
もしかすると、目の前の機体も何か関係があるのだろうか。
そう思った。
確認する暇はなかった。
工場はすぐに後方へ流れていった。
建物の向こうへ、白い機体も見えなくなった。
理沙は少しの間、その方向を見ていた。
それから前へ向き直った。
*
高速道路へ入る。
街が遠ざかる。
左右に広がるのは、道路と平原。
ところどころに低い建物。
遠くに山。
あとは、空。
景色はゆっくり変わっているはずなのに、見ているうちに同じ場所を走り続けているような気分になってきた。
一定のエンジン音。
路面から伝わる振動。
暖かい車内。
理沙は何度か瞬きをした。
「眠い……」
昨夜はきちんと寝た。
それでも、朝が早かった。
窓に頭を寄せる。
目を閉じる。
そのまま眠った。
*
どれくらい経ったのか分からなかった。
バスが止まる感覚で、理沙は薄く目を開けた。
どこかの停留所。
乗客が何人か降りていく。
代わりに新しい乗客が乗ってくる。
理沙はぼんやり窓の外を見た。
まだ頭が半分眠っている。
そのとき。
「ごめんなさい。起こしちゃった?」
隣から女性の声がした。
「……え?」
理沙は顔を向けた。
いつの間にか、隣の席に女性が座っていた。
四十歳前後だろうか。
派手さのない普段着。
手元には小さなバッグと飲み物。
ごく普通の旅行者だった。
「いえ、大丈夫です」
「荷物、邪魔じゃない?」
「大丈夫です」
「よかった」
女性は少し笑った。
理沙も小さく笑い返した。
それだけで、何となく安心した。
*
バスが再び走り始める。
しばらくは、二人とも何も話さなかった。
理沙は再び窓の外を見る。
女性は端末を眺めている。
沈黙は気にならなかった。
しばらくして、女性が聞いた。
「どこまで?」
「南の方まで。途中で何回か乗り換えます」
「長旅ね」
「そうなんです」
「私はサクラメントまで」
「じゃあ、しばらく一緒ですね」
「そうね」
そこから、少しずつ話すようになった。
*
何を話したかと聞かれれば、大したことではなかった。
シアトルはもう朝晩寒い。
サクラメントはまだ暖かい。
長距離バスは安いけれど時間がかかる。
乗り換えが少し面倒。
飛行機なら楽なのに。
「あなた、旅行?」
女性に聞かれた。
理沙は少し迷った。
「学校へ行く途中です」
「大学?」
「……まあ、そんな感じです」
軍の士官学校だと説明すると、たぶん話が長くなる。
今はそれで十分だった。
「遠くの学校?」
「かなり」
「大変ね」
「これからです」
女性は笑った。
「若いうちは、それくらいがいいわよ」
「そうですか?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「私だって分からないもの」
二人は笑った。
*
途中のターミナルで休憩になった。
乗客たちが車外へ出る。
理沙も女性と一緒に降りた。
売店で簡単な食事を買う。
パン。
温かい飲み物。
果物。
二人は待合スペースの席に並んで座った。
「こういうところの食事って、何食べても同じ味がするわね」
女性が言った。
「分かります」
「でも買っちゃうのよね」
「他にないから」
それだけの会話で、また笑った。
*
バスへ戻る。
今度は少し話す。
また黙る。
女性が眠る。
理沙も眠る。
目が覚めると、景色が少し変わっている。
低い山。
乾いた土地。
また平原。
遠くに小さな町。
時間だけがゆっくり進んでいく。
*
理沙が次に目を覚ましたときには、日が傾き始めていた。
窓から差し込む光が、午前中より黄色い。
女性は起きていた。
「よく寝てたわね」
「すみません」
「別に謝らなくていいのよ」
「私、口開いてました?」
「そこまでは見てない」
「よかった」
女性が笑った。
理沙も笑った。
*
夕方。
乗り換えのため、二人は大きなバスターミナルで降りた。
ここから先。
サンフランシスコ、サクラメント方面へ向かうバスへ乗り換える。
案内表示を見る。
予定時刻。
理沙は腕時計を確認した。
「まだ時間あるね」
女性が言った。
「ですね」
待合室へ入る。
二人並んで座った。
*
一時間。
予定時刻になった。
バスは来ない。
二十分。
三十分。
表示が変わった。
遅延。
「まあ、長距離バスだから」
女性が言った。
「よくあるんですか?」
「よくあるわよ」
「そんなに?」
「だから飛行機にすればよかったって、毎回思うの」
「じゃあ、どうして今回もバスなんです?」
「安いから」
理沙は笑った。
「同じですね」
*
さらに待つ。
夜になる。
待合室の人間が少しずつ減る。
売店も閉まった。
照明だけが妙に明るい。
理沙と女性は並んで座ったまま、ときどき話し、しばらく黙った。
無理に会話を続ける必要はなかった。
女性が端末を見る。
理沙もニュースを眺める。
眠くなる。
少し目を閉じる。
目を開けても、まだバスは来ていない。
*
「今、何時?」
女性が聞いた。
「二時半」
「ひどいわね」
「ほんとですね」
「ホテル取った方がよかったかしら」
「ここまで待ったら、もう意地ですね」
「そうね」
二人とも笑う元気は、あまり残っていなかった。
*
結局。
バスが到着したのは、午前三時近くだった。
「来た……」
理沙が言った。
女性も立ち上がる。
「やっとね」
乗客たちは眠そうな顔のまま列へ並んだ。
荷物を預ける。
乗車する。
今度も理沙と女性は隣同士だった。
「じゃあ、おやすみ」
女性が言った。
「おやすみなさい」
バスが動き出したころには、理沙はもうほとんど眠っていた。
*
次に目を覚ましたとき。
外は明るかった。
窓の向こうには朝の街。
理沙は目をこすった。
「……どこ?」
「もうすぐサクラメントよ」
隣から声がした。
「もう?」
「結構寝てたわよ」
時計を見る。
午前八時近い。
「ほんとだ」
身体を伸ばす。
首が少し痛かった。
*
サクラメントのターミナルへ入る。
バスが停車した。
女性はここで降りる。
理沙も次の乗り換えのため、一度車外へ出た。
荷物室から女性のバッグが取り出される。
「じゃあ、ここまでね」
「ですね」
「学校、頑張って」
「ありがとうございます」
「気をつけて」
「そちらも」
女性は手を上げた。
理沙も軽く手を振る。
それだけだった。
名前も聞かなかった。
連絡先も交換しなかった。
女性はバッグを持ち、ターミナルの出口へ向かって歩いていく。
途中で一度だけ振り返り、また手を振った。
理沙も振り返す。
そして姿が見えなくなった。
*
「……行っちゃった」
少しだけ寂しかった。
ほんの一日。
同じバスに乗っただけ。
何か特別な話をしたわけでもない。
それでも、長い旅の途中を一緒に過ごした。
それだけで、少し記憶に残る。
旅とは、そういうものなのかもしれなかった。
*
理沙は案内表示を確認した。
次。
ロサンゼルス方面。
予定時刻を見る。
「……また遅れてる」
ため息が出た。
前夜の遅延が、そのまま後ろの便にも影響しているらしい。
今日の夕方には、目的地近くの宿へ入るつもりだった。
できれば明るいうちに着きたい。
理沙は時刻を計算した。
「大丈夫かな……」
*
待合室の窓の向こうを見る。
サクラメントの朝。
空は明るい。
ただ。
南の方角には、いつの間にか厚い雲が広がり始めていた。
低く。
灰色に。
朝の光を遮るように。
理沙はしばらく空を眺めた。
「雨かな」
誰に言うでもなく呟く。
ターミナルの案内表示が、また一度切り替わった。
出発予定時刻。
さらに遅延。
「……先、長いなあ」
理沙はリュックを抱え直し、椅子へ深く座った。
窓の向こうでは、雲がゆっくり南の空を覆い始めていた。
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