003_29_Under the sky(2)

 結局、バスがサクラメントのターミナルへ入ってきたのは、予定より二時間ほど遅れてからだった。

 午前十時。

 外へ出ると、日差しはまだ夏とほとんど変わらない。

 九月も終わりに近いというのに、舗装された地面から熱気が上がっている。

「暑……」

 理沙はリュックの肩紐を直した。

 さっきまで朝の空気だったはずなのに。

 少し南へ来ただけで、季節まで戻ったようだった。

     *

 到着したバスは、これまで乗ってきたものより新しかった。

 車内へ入る。

 三列のシート。

 通路を挟んで一席と二席。

 一つ一つの座席にも余裕がある。

「これは楽かも」

 理沙は窓際の指定席へ座った。

 大きなキャリーケースは荷物室。

 リュックだけを足元へ置く。

 すぐ隣の中央列には、四十代くらいの男が座った。

 ジャケット。

 襟のあるシャツ。

 小さなビジネスバッグ。

 席へ着くなり端末を開き、その上に薄型のキーボードを広げた。

 理沙と一度だけ目が合った。

 男は軽く会釈した。

 理沙も返す。

 それだけだった。

     *

 バスが動き始めた。

 発車したはずなのに、車内は静かだった。

 エンジンが唸るような音はない。

 低いモーター音と、タイヤが路面を拾う音だけが続く。

 理沙はシートへ深く身体を預けた。

「これなら寝られそう……」

 前夜。

 深夜三時までバスを待った。

 移動中にも眠ったが、まともに寝た気はしない。

 隣の男はすでに仕事を始めていた。

 資料を開く。

 何かを書き込む。

 短い通信。

 画面を切り替える。

 また入力。

 バスの中だというのに、完全に仕事の顔だった。

 理沙は横目で見た。

 少しだけ、ダグラスを思い出した。

 休憩中でも何かを確認していた。

 人と話している最中にも、頭のどこかで次の仕事を考えているような人だった。

「どこにでもいるんだな」

 理沙は小さく笑った。

 それから窓に頭を預けた。

 間もなく眠った。

     *

 激しい音で目を覚ました。

「……何?」

 最初は、バスに何か起きたのかと思った。

 違った。

 雨だった。

 窓一面を、大量の水が流れている。

 屋根を叩く音。

 車体へぶつかる音。

 道路から上がる水煙。

 窓の外は、灰色だった。

     *

 サクラメントを出たとき、遠くに見えていた雲。

 それが今は完全に頭上へ来ている。

 空は暗い。

 昼間なのに、夕方のようだった。

 ワイパーが激しく動いている。

 それでも前方の景色は霞んでいた。

「すごいな……」

 理沙は窓へ少し顔を寄せた。

 バスは速度を落として走っている。

 外には、広い土地が続いていた。

 低い草。

 乾いた地面。

 ところどころに岩。

 大きな木も少ない。

 見るからに水の少なそうな土地だった。

 そこへ、滝のような雨が降っている。

 妙な光景だった。

     *

 隣の男は、それでも仕事を続けていた。

 車体が揺れる。

 窓の外では雨が激しく流れる。

 男は画面からほとんど目を離さない。

「そこまでしてやるのかな」

 理沙は少し呆れた。

 同時に。

 自分も少し前なら同じことをしていたかもしれないと思った。

     *

 途中のターミナルで休憩になった。

 外へ出る気にはなれなかった。

 屋根のある通路を走るようにして売店へ向かい、簡単な食事だけ買う。

 パン。

 サラダ。

 温かい飲み物。

 濡れないように袋を抱え、すぐバスへ戻った。

 隣の男も同じだった。

 食事を片手に、また画面へ向かっている。

 理沙はパンを食べながら窓の外を見た。

「さっきまで晴れてたのに」

 雨はさらに激しくなっていた。

     *

 バスはまた走り出す。

 外の風景は、ほとんど見えなくなった。

 灰色。

 水。

 時々、道路脇の標識。

 対向車のライト。

 あとは何もない。

 単調な音を聞いているうちに、また眠くなった。

     *

 次に目を開けたとき。

 まぶしかった。

「……ん?」

 顔を上げる。

 窓の向こう。

 灰色だった空の一部が裂けていた。

 雲の隙間から日差しが入っている。

 雨はまだ降っている。

 けれど、さっきほど激しくない。

 車窓を流れる水の量も減っていた。

 遠くの景色が少しずつ戻ってくる。

     *

 乾いた平原。

 濡れた道路。

 低い草。

 雨を含んで黒くなった土。

 雲の向こうから差し込む光だけが、妙に明るかった。

 理沙はしばらく黙って眺めた。

     *

 やがて雨は、ほとんど止んだ。

 バスは目的地の一つ手前のターミナルへ入った。

 短い休憩。

 理沙は身体を伸ばすため、外へ出た。

     *

 空気が変わっていた。

 雨の匂い。

 濡れた舗装。

 少し冷えた風。

 西の空から、低い日差しが差している。

 さっきまで頭上にあった黒い雲は、東へ流れていた。

 理沙は何となく、その方向を見た。

「……あ」

 足が止まった。

     *

 東の空。

 大きな虹がかかっていた。

 地平近くから立ち上がり。

 空の高いところまで弧を描き。

 反対側の遠い地面へ降りている。

 周囲に高い建物がほとんどない。

 遮るものもない。

 だからなのか。

 これまで見たどの虹よりも、大きく見えた。

「……大きい」

 それしか言葉が出なかった。

     *

 赤。

 橙。

 黄。

 緑。

 青。

 色の境目まで分かる。

 ところどころ薄くなっているが、端から端までほぼ途切れていない。

 理沙はしばらく見上げていた。

 写真を撮ろうと思い、スマートフォンを取り出す。

 画面に収める。

 それでも。

 目で見ている大きさにはならなかった。

「全然違うな」

 理沙は端末を下ろした。

     *

 少し離れたところに、人がいた。

 隣の席に座っていた男だった。

 彼もスマートフォンを空へ向けている。

 何枚か撮影する。

 確認する。

 また撮る。

 さっきまで端末へ向かっていた真剣な顔ではなかった。

 少し笑っている。

 撮影を終えると、両腕を上へ伸ばし、大きく背伸びをした。

 理沙は思わず笑った。

 男がこちらを見る。

 目が合った。

「すごいですね」

 理沙から声をかけた。

「ああ」

 男は虹を見上げた。

「久しぶりに、こんな大きいのを見た」

「私もです」

 二人とも、また空を見る。

     *

「ずっと仕事してましたよね」

 理沙が言った。

 男が笑った。

「見てた?」

「隣なので」

「締め切りがあってね」

「バスの中まで?」

「仕方ない」

 理沙は少し笑った。

「前の上司を思い出しました」

「そんなに仕事ばかりしてる人?」

「かなり」

「それは気の毒に」

「上司が?」

「君が」

 二人は笑った。

     *

 しばらく虹を見ていた。

 男が言った。

「海の上だと、もっと大きく見えることがある」

「海?」

「ああ」

「船の仕事をしてたんですか?」

「昔ね」

 男は少しだけ遠くを見るような顔をした。

「海軍にいた」

 理沙は男を見る。

「海軍?」

「ああ。もうずいぶん前だ」

「どんな仕事を?」

「空母」

「え?」

「そこで勤務してた」

 理沙は少し驚いた。

「飛行機に乗ってたんですか?」

「いや。私は飛ばない方」

 男は笑った。

「機材と人員の管理。地味な仕事だよ」

「ロジスティック?」

 男が理沙を見る。

「詳しいね」

「最近、その言葉をよく聞いたので」

     *

「君は?」

 男が聞いた。

「何でこんな遠くまで?」

 理沙は少しだけ考えた。

 昨日は、隣の女性に「学校へ行く」とだけ答えた。

 今回は。

 なぜか隠す気にならなかった。

「士官学校へ行くところです」

 男の表情が少し変わった。

「軍の?」

「はい」

「候補生?」

「技術士官です。まだ入学するだけですけど」

「なるほど」

 男は理沙を上から下まで見る。

 値踏みするような目ではなかった。

 ただ、少し意外そうだった。

「これから大変だ」

「やっぱり?」

「楽ではない」

「でしょうね」

「でも」

 男は虹を見た。

「悪い経験じゃない」

     *

 理沙は何か聞こうかと思った。

 どんな生活だったのか。

 何が大変だったのか。

 辞めてから何をしているのか。

 けれど。

 休憩終了の案内が聞こえた。

「そろそろですね」

「ああ」

 男はスマートフォンをポケットへ入れた。

 二人はバスへ戻ろうと歩き始めた。

     *

 乗車口の手前。

 男が立ち止まった。

「じゃあ」

 理沙を見る。

「健闘を祈る」

「ありがとうございます」

 男は少し笑った。

 そして。

 冗談めかして背筋を伸ばし、理沙へ軽く敬礼した。

 理沙は一瞬、どうすればいいのか分からなかった。

 結局、同じように軽く手を上げた。

 男が笑った。

「まだ早い」

「ですよね」

 二人は笑いながらバスへ戻った。

     *

 再び出発する。

 理沙は窓際へ座った。

 隣の男も席へ戻る。

 今度は、すぐには端末を開かなかった。

 二人とも少しの間、窓の外を見ていた。

 虹はまだ残っていた。

 バスが走り出す。

 位置が変わる。

 虹が少しずつ遠ざかる。

 やがて建物と地形に隠れ、見えなくなった。

     *

 男は再び仕事を始めた。

 理沙は、それを見て少し笑った。

「やっぱり仕事するんだ」

「締め切りがあるって言っただろ」

「そうでした」

「君もそのうち分かる」

「もう十分分かってます」

 男は笑った。

     *

 それから先は、また長かった。

 日が沈む。

 窓の外が暗くなる。

 街灯。

 遠くの町の明かり。

 高速道路を走る車のライト。

 理沙は何度か眠った。

 起きるたび、少しずつ目的地へ近づいていた。

     *

 ようやくバスが最後のターミナルへ入ったのは、午後十時近くだった。

「着いた……」

 理沙は大きく息を吐いた。

 ほとんど一日かかった。

 いや。

 シアトルを出てから考えれば、それ以上だった。

     *

 荷物室からキャリーケースを受け取る。

 隣の男も降りてきた。

「ここで?」

「はい」

「学校は明日?」

「入校はもう少し先です。今日はホテルへ」

「そうか」

 男は軽く手を上げた。

「じゃあ、今度こそ健闘を」

「ありがとうございます」

「寝られるうちに寝ておいた方がいい」

「それ、経験談ですか?」

「もちろん」

 男は笑った。

 理沙も笑った。

「覚えておきます」

 それだけだった。

 男は別の方向へ歩いていった。

 理沙もキャリーケースの取っ手を握った。

     *

 夜の空は、もう何も見せていなかった。

 虹もない。

 雨もない。

 星も、街の明かりに隠れてほとんど見えない。

 理沙は予約してあるホテルの方向を確認した。

 歩き始める。

 キャリーケースの車輪が、舗装された歩道を転がる。

     *

 明日になれば。

 士官学校は、もうそれほど遠くない。

 そう考えても、特別な実感はなかった。

 今はただ。

「早く寝たい……」

 それだけだった。

 理沙は少し笑い、夜の通りをホテルへ向かって歩いていった。



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