結局、バスがサクラメントのターミナルへ入ってきたのは、予定より二時間ほど遅れてからだった。
午前十時。
外へ出ると、日差しはまだ夏とほとんど変わらない。
九月も終わりに近いというのに、舗装された地面から熱気が上がっている。
「暑……」
理沙はリュックの肩紐を直した。
さっきまで朝の空気だったはずなのに。
少し南へ来ただけで、季節まで戻ったようだった。
*
到着したバスは、これまで乗ってきたものより新しかった。
車内へ入る。
三列のシート。
通路を挟んで一席と二席。
一つ一つの座席にも余裕がある。
「これは楽かも」
理沙は窓際の指定席へ座った。
大きなキャリーケースは荷物室。
リュックだけを足元へ置く。
すぐ隣の中央列には、四十代くらいの男が座った。
ジャケット。
襟のあるシャツ。
小さなビジネスバッグ。
席へ着くなり端末を開き、その上に薄型のキーボードを広げた。
理沙と一度だけ目が合った。
男は軽く会釈した。
理沙も返す。
それだけだった。
*
バスが動き始めた。
発車したはずなのに、車内は静かだった。
エンジンが唸るような音はない。
低いモーター音と、タイヤが路面を拾う音だけが続く。
理沙はシートへ深く身体を預けた。
「これなら寝られそう……」
前夜。
深夜三時までバスを待った。
移動中にも眠ったが、まともに寝た気はしない。
隣の男はすでに仕事を始めていた。
資料を開く。
何かを書き込む。
短い通信。
画面を切り替える。
また入力。
バスの中だというのに、完全に仕事の顔だった。
理沙は横目で見た。
少しだけ、ダグラスを思い出した。
休憩中でも何かを確認していた。
人と話している最中にも、頭のどこかで次の仕事を考えているような人だった。
「どこにでもいるんだな」
理沙は小さく笑った。
それから窓に頭を預けた。
間もなく眠った。
*
激しい音で目を覚ました。
「……何?」
最初は、バスに何か起きたのかと思った。
違った。
雨だった。
窓一面を、大量の水が流れている。
屋根を叩く音。
車体へぶつかる音。
道路から上がる水煙。
窓の外は、灰色だった。
*
サクラメントを出たとき、遠くに見えていた雲。
それが今は完全に頭上へ来ている。
空は暗い。
昼間なのに、夕方のようだった。
ワイパーが激しく動いている。
それでも前方の景色は霞んでいた。
「すごいな……」
理沙は窓へ少し顔を寄せた。
バスは速度を落として走っている。
外には、広い土地が続いていた。
低い草。
乾いた地面。
ところどころに岩。
大きな木も少ない。
見るからに水の少なそうな土地だった。
そこへ、滝のような雨が降っている。
妙な光景だった。
*
隣の男は、それでも仕事を続けていた。
車体が揺れる。
窓の外では雨が激しく流れる。
男は画面からほとんど目を離さない。
「そこまでしてやるのかな」
理沙は少し呆れた。
同時に。
自分も少し前なら同じことをしていたかもしれないと思った。
*
途中のターミナルで休憩になった。
外へ出る気にはなれなかった。
屋根のある通路を走るようにして売店へ向かい、簡単な食事だけ買う。
パン。
サラダ。
温かい飲み物。
濡れないように袋を抱え、すぐバスへ戻った。
隣の男も同じだった。
食事を片手に、また画面へ向かっている。
理沙はパンを食べながら窓の外を見た。
「さっきまで晴れてたのに」
雨はさらに激しくなっていた。
*
バスはまた走り出す。
外の風景は、ほとんど見えなくなった。
灰色。
水。
時々、道路脇の標識。
対向車のライト。
あとは何もない。
単調な音を聞いているうちに、また眠くなった。
*
次に目を開けたとき。
まぶしかった。
「……ん?」
顔を上げる。
窓の向こう。
灰色だった空の一部が裂けていた。
雲の隙間から日差しが入っている。
雨はまだ降っている。
けれど、さっきほど激しくない。
車窓を流れる水の量も減っていた。
遠くの景色が少しずつ戻ってくる。
*
乾いた平原。
濡れた道路。
低い草。
雨を含んで黒くなった土。
雲の向こうから差し込む光だけが、妙に明るかった。
理沙はしばらく黙って眺めた。
*
やがて雨は、ほとんど止んだ。
バスは目的地の一つ手前のターミナルへ入った。
短い休憩。
理沙は身体を伸ばすため、外へ出た。
*
空気が変わっていた。
雨の匂い。
濡れた舗装。
少し冷えた風。
西の空から、低い日差しが差している。
さっきまで頭上にあった黒い雲は、東へ流れていた。
理沙は何となく、その方向を見た。
「……あ」
足が止まった。
*
東の空。
大きな虹がかかっていた。
地平近くから立ち上がり。
空の高いところまで弧を描き。
反対側の遠い地面へ降りている。
周囲に高い建物がほとんどない。
遮るものもない。
だからなのか。
これまで見たどの虹よりも、大きく見えた。
「……大きい」
それしか言葉が出なかった。
*
赤。
橙。
黄。
緑。
青。
色の境目まで分かる。
ところどころ薄くなっているが、端から端までほぼ途切れていない。
理沙はしばらく見上げていた。
写真を撮ろうと思い、スマートフォンを取り出す。
画面に収める。
それでも。
目で見ている大きさにはならなかった。
「全然違うな」
理沙は端末を下ろした。
*
少し離れたところに、人がいた。
隣の席に座っていた男だった。
彼もスマートフォンを空へ向けている。
何枚か撮影する。
確認する。
また撮る。
さっきまで端末へ向かっていた真剣な顔ではなかった。
少し笑っている。
撮影を終えると、両腕を上へ伸ばし、大きく背伸びをした。
理沙は思わず笑った。
男がこちらを見る。
目が合った。
「すごいですね」
理沙から声をかけた。
「ああ」
男は虹を見上げた。
「久しぶりに、こんな大きいのを見た」
「私もです」
二人とも、また空を見る。
*
「ずっと仕事してましたよね」
理沙が言った。
男が笑った。
「見てた?」
「隣なので」
「締め切りがあってね」
「バスの中まで?」
「仕方ない」
理沙は少し笑った。
「前の上司を思い出しました」
「そんなに仕事ばかりしてる人?」
「かなり」
「それは気の毒に」
「上司が?」
「君が」
二人は笑った。
*
しばらく虹を見ていた。
男が言った。
「海の上だと、もっと大きく見えることがある」
「海?」
「ああ」
「船の仕事をしてたんですか?」
「昔ね」
男は少しだけ遠くを見るような顔をした。
「海軍にいた」
理沙は男を見る。
「海軍?」
「ああ。もうずいぶん前だ」
「どんな仕事を?」
「空母」
「え?」
「そこで勤務してた」
理沙は少し驚いた。
「飛行機に乗ってたんですか?」
「いや。私は飛ばない方」
男は笑った。
「機材と人員の管理。地味な仕事だよ」
「ロジスティック?」
男が理沙を見る。
「詳しいね」
「最近、その言葉をよく聞いたので」
*
「君は?」
男が聞いた。
「何でこんな遠くまで?」
理沙は少しだけ考えた。
昨日は、隣の女性に「学校へ行く」とだけ答えた。
今回は。
なぜか隠す気にならなかった。
「士官学校へ行くところです」
男の表情が少し変わった。
「軍の?」
「はい」
「候補生?」
「技術士官です。まだ入学するだけですけど」
「なるほど」
男は理沙を上から下まで見る。
値踏みするような目ではなかった。
ただ、少し意外そうだった。
「これから大変だ」
「やっぱり?」
「楽ではない」
「でしょうね」
「でも」
男は虹を見た。
「悪い経験じゃない」
*
理沙は何か聞こうかと思った。
どんな生活だったのか。
何が大変だったのか。
辞めてから何をしているのか。
けれど。
休憩終了の案内が聞こえた。
「そろそろですね」
「ああ」
男はスマートフォンをポケットへ入れた。
二人はバスへ戻ろうと歩き始めた。
*
乗車口の手前。
男が立ち止まった。
「じゃあ」
理沙を見る。
「健闘を祈る」
「ありがとうございます」
男は少し笑った。
そして。
冗談めかして背筋を伸ばし、理沙へ軽く敬礼した。
理沙は一瞬、どうすればいいのか分からなかった。
結局、同じように軽く手を上げた。
男が笑った。
「まだ早い」
「ですよね」
二人は笑いながらバスへ戻った。
*
再び出発する。
理沙は窓際へ座った。
隣の男も席へ戻る。
今度は、すぐには端末を開かなかった。
二人とも少しの間、窓の外を見ていた。
虹はまだ残っていた。
バスが走り出す。
位置が変わる。
虹が少しずつ遠ざかる。
やがて建物と地形に隠れ、見えなくなった。
*
男は再び仕事を始めた。
理沙は、それを見て少し笑った。
「やっぱり仕事するんだ」
「締め切りがあるって言っただろ」
「そうでした」
「君もそのうち分かる」
「もう十分分かってます」
男は笑った。
*
それから先は、また長かった。
日が沈む。
窓の外が暗くなる。
街灯。
遠くの町の明かり。
高速道路を走る車のライト。
理沙は何度か眠った。
起きるたび、少しずつ目的地へ近づいていた。
*
ようやくバスが最後のターミナルへ入ったのは、午後十時近くだった。
「着いた……」
理沙は大きく息を吐いた。
ほとんど一日かかった。
いや。
シアトルを出てから考えれば、それ以上だった。
*
荷物室からキャリーケースを受け取る。
隣の男も降りてきた。
「ここで?」
「はい」
「学校は明日?」
「入校はもう少し先です。今日はホテルへ」
「そうか」
男は軽く手を上げた。
「じゃあ、今度こそ健闘を」
「ありがとうございます」
「寝られるうちに寝ておいた方がいい」
「それ、経験談ですか?」
「もちろん」
男は笑った。
理沙も笑った。
「覚えておきます」
それだけだった。
男は別の方向へ歩いていった。
理沙もキャリーケースの取っ手を握った。
*
夜の空は、もう何も見せていなかった。
虹もない。
雨もない。
星も、街の明かりに隠れてほとんど見えない。
理沙は予約してあるホテルの方向を確認した。
歩き始める。
キャリーケースの車輪が、舗装された歩道を転がる。
*
明日になれば。
士官学校は、もうそれほど遠くない。
そう考えても、特別な実感はなかった。
今はただ。
「早く寝たい……」
それだけだった。
理沙は少し笑い、夜の通りをホテルへ向かって歩いていった。
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