木星に到着すると、それまで準備を進めていた作業が、一気に現実の工程として動き始めた。
長い航海のあいだに積み重ねてきた確認や調整は、ここから先、順番に実行へと移されていく。
今回の木星でのミッションは、大きく分けて二つある。
一つは、木星上層大気中におけるヘリウム3の分布調査である。
これまでにも無人探査機による大気スペクトル分析は行われてきたが、
今回はそれとは異なり、実際に上層大気へ突入し、サンプルを採取して持ち帰るという、より踏み込んだ試みだった。
機体格納庫に収められている原子力ラムジェット機は、そのために用意された専用機であり、すでにスタンバイ状態に入っている。準備は整っていた。
もう一つは、今後本格的に進められる木星作業拠点建設のための下準備である。
作業用プラットフォームの設計はほぼ完了しており、あとはFSDD参加各国の予算承認を待つ段階に入っていた。
実際の建設が始まる前に必要となるのは、通信と位置情報のインフラである。
「エンデヴァー」には灯台衛星と呼ばれる3基の衛星が搭載されており、木星到着の翌日には予定通り周回軌道へと投入された。
これらの衛星は赤道周回軌道上から約8か月をかけて極軌道へと移動し、最終的には木星全域をカバーする通信サービスと測位機能を提供することになる。
そのほかにも、純粋な調査ミッションとして、衛星エウロパやガニメデへの無人探査機、さらには有人着陸船による探査も計画されていた。
いずれも、短期的な成果というよりは、将来の開発を見据えた基礎データの収集が目的である。
木星における調査期間は8か月。
その後に土星へと向かう――それが、当初想定されていた全体の流れだった。
そんな予定のはずだった。
先日まで、船長との会話の中心は、メリッサとの日々のやり取りについてのものだった。
ささいな違和感をどう扱うべきか、どこまで踏み込むべきか。結論は出ないまま、それでも2人のあいだで繰り返し話題に上がっていた。
しかしここ数日で、その流れは明らかに変わり始めていた。
話題の中心は、一気に外へと移る。中国の動向だった。
会議室の壁面ディスプレイには、太陽系の軌道地図が常時表示されている。
理沙はその前に立ち、指先で軌道をなぞるようにして「長征」の現在位置を確認していた。
「長征」はすでに木星の周回軌道を越え、土星までの道のりのほぼ半分に達している。
「やっぱり」
理沙は小さく呟いた。視線はディスプレイから外さないまま。
「このタイミングを狙っていたわけね」
木星でのヘリウム3開発で優位に立っていると繰り返し主張してきた中国は、ここにきて急に論調を変え、土星における水資源の可能性を語り始めていた。
ディスプレイの別画面では、中国科学院の責任者がインタビューに応じている映像が流れている。
土星の環に含まれる氷資源、そこから得られる水、そしてそれを基盤とした宇宙開発の拡張――話は次第にスケールを増していく。
やがて映し出されたのは、タイタンに建設されるという巨大居住施設の想像図だった。
核融合エネルギーを前提とした、閉鎖型の大規模コロニー。
現実との距離を感じさせるその映像を、理沙は無言で見つめる。
「宇宙条約に署名していないから、何とでも言えるわけだ」
背後から船長の声がした。抑揚のない、事実をそのまま述べるような口調だった。
理沙は振り返らずに、軽く肩をすくめるだけで応じる。
船長はそれ以上は何も言わず、手元のコンソールで操作を行った。
壁面ディスプレイのマルチ画面の一角に表示されていたホワイトハウスの記者会見映像が、ゆっくりと拡大されていく。
やがて、画面全体がその映像に切り替わった。
船長は一瞬、腕時計に視線を落とした。時間を確認するだけの、短い仕草。そのあと、静かに顔を上げる。
「そろそろだ」
誰にともなく言ったその言葉は、小さかったが、確実にその場の空気を変えた。
やがて会見が始まる。
船長は、他の乗組員にも視聴するよう短く伝えた。
通信回線を通じて、各自の個室や作業スペースにも同じ映像が配信される。
それぞれが、それぞれの場所で画面に視線を向ける。
まだこの時点では、それがどれほどの意味を持つのか、誰もはっきりとは理解していなかった。
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