土星への出発当日。
コクピットには、理沙とエドガーの2人だけがいた。
今回の出発オペレーションはこの2人が担当する。
パイロット席にエドガー、そして理沙は船長席に座り、正面のディスプレイに広がる情報を淡々と確認していた。
エドガーと仕事を共にする機会は多くはない。
だが、食事の時間に顔を合わせると、自然と会話が生まれる相手だった。
特別に面白い話をするわけではない。ただ、言葉の選び方や間の取り方が心地よい。
デイビッドが仕事上のパートナーだとすれば、エドガーはどこか波長の合う人物――そんな位置づけだった。
2人は必要最低限の言葉を交わしながら、出発前のチェックを進める。
手順は既に体に染み込んでいる。確認項目を一つひとつ潰していく作業に、迷いはない。
「エンデヴァー」はすでに木星周回軌道を離れていた。
木星に向けてわずかに接近し、その巨大な重力井戸を利用して加速しながら、進路を土星へと切り替える。
計算通りの軌道。ディスプレイに表示される数値は、すべて許容範囲内に収まっている。
ふと、理沙は思い出す。
木星に滞在していたのは、わずか4週間ほどだったはずだ。だが、その間に起きた出来事はあまりにも多く、時間の感覚が曖昧になっている。
大統領の一言から始まり、ここに至るまでの流れは、振り返れば一瞬のようにも感じられた。
少しだけ間を置いて、理沙は口を開く。
「いろいろあったわね」
視線はディスプレイのまま、機器表示を確認しながらの言葉だった。
エドガーは一瞬だけ口元を緩める。
「これから、いい事あるでしょ」
同じように、視線は前方に向けたまま。
短い会話だったが、それで十分だった。
ふと、理沙は視線を横に流す。エドガーの方を見ると、彼もまた同じタイミングでこちらを見ていた。
言葉にはならない何かが、その一瞬で交わされる。
次の瞬間には、2人とも何事もなかったかのように再びディスプレイに目を戻していた。
やがて、木星の夜の側が目前に迫る。
コクピットの照明がわずかに落ち、外の暗闇が一層深く感じられる。
後方モニターには、木星の縁に沈みかけた太陽が映し出されていた。巨大な惑星の輪郭に沿って、光が細く伸びている。
そして、「エンデヴァー」は木星の陰に包まれる。
一瞬、外界の光が完全に断たれた。
土星への加速に入る前の最終チェックが始まる。
理沙は各セクションへと順番に呼びかける。
制御システム、環境系、航法、通信――それぞれの担当から、遅れることなく「Go」の返答が返ってくる。
その声はどれも落ち着いていて、余計な感情を含んでいない。
「船長、準備ができました」
理沙は、会議室で待機している船長に向けて通信を送る。
わずかな間をおいて、返答が届く。
「では出発」
それだけだった。
理沙はシステムに推進システムのスタートを指示する。
ディスプレイの表示が切り替わり、出力値がゆっくりと上昇を始める。
数値の変化を確認しながら、理沙は背中にかかる圧力の変化に意識を向ける。
徐々に、しかし確実に、身体がシートに押し付けられていく。
加速は始まったばかりだ。
100パーセント出力での航行は、これから長く続く。
その最初の数分間が、静かに過ぎていく。コクピット内に余計な音はない。
システムの低い駆動音と、微かな振動だけが、船が動いていることを示している。
やがて、前方のディスプレイの一角に、わずかな明るさが差し込む。
完全な闇だったはずの空間に、細い光の縁が現れ始める。
理沙は、それを見つめながら、小さく呟いた。
「日の出の方向」
木星の縁から、再び太陽が顔を出す。
ゆっくりと、しかし確実に、光が広がっていく。
その光は、コクピットの中にも淡く差し込み、機器の表面に反射して揺れる。
エドガーは何も言わない。ただ、その光景を同じように見ている。
理沙は、ほんのわずかに口元を緩める。
「どこまでも真っすぐに、全速で」
その言葉は誰に向けたものでもなく、ただこの航路そのものを指し示すようだった。
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