土星に向けて出発してから、1か月が過ぎていた。
「エンデヴァー」は、すでに土星までの航路の半分近くまで到達している。
会議室の壁面ディスプレイに表示された軌道図を見るたびに、理沙は無意識に「長征」の現在位置を確認していた。
おそらく、自分だけではない。乗組員の誰もが、何かのついでを装いながら、同じことをしているのだろうと思う。
木星で開始された継続調査ミッションは、その後も粛々と進行していた。
エウロパには無人探査機が予定通り着陸し、ガニメデには無人化された着陸船が投入されている。
3基の灯台衛星もまた、木星周回軌道上をゆっくりと移動しながら、極軌道への遷移を続けていた。
しかし、乗組員たちの意識は、すでに木星から離れていた。
全員が土星での作業へと気持ちを切り替え、タイタン着陸や大気ブレーキ、通信インフラ設置のための準備に追われている。
日々の会話の端々にも、木星の話題はほとんど出なくなっていた。
「焦ってるのは、“長征”の方じゃないのかな~?」
会議室で昼食を取っていた時、デイビッドがいつもの皮肉っぽい口調でそう言った。
しかし、その場には以前のような笑いは起きない。
ほんのわずかな沈黙。
誰も彼の言葉に反応しなかった。ただ、それぞれが小さく苦笑するだけだった。
競争だ、威信だと口では言っていても、ここまで来れば、もうそんな単純な話ではない。皆、薄々わかっていた。
その日の後半シフト。
会議室で船長と2人きりになった時、理沙は以前から気になっていたことを切り出した。
「例の件ですが……」
腕組みをしたまま考え事をしていた船長が、ゆっくりと顔を上げる。
理沙の言葉の意味をすぐに理解したらしく、彼は小さく笑みを浮かべた。
「とりあえずは、大丈夫そうですね」
理沙はそう言いながら、少しだけ言葉を濁した。
以前、中央通路でメリッサと立ち話をした時のことが脳裏をよぎる。
あの時、部屋にいた船長から急に声をかけられ、思わず肩が跳ねそうになった。
監視されていたことへの驚きと、どこか後ろめたいような感覚。その記憶が、今も妙に鮮明に残っている。
「まだ相変わらず、24時間監視中ですか?」
理沙がそう尋ねると、船長は苦笑い混じりに頷いた。
「そんな、ストーカーまがいの事はもうやめましょう」
理沙はわざと軽い口調でそう言った。
すると、船長は露骨に難しい顔になる。
その反応がおかしくて、理沙は思わず声をあげて笑った。
「冗談ですよ」
つられるように、船長も小さく笑う。
「理沙の言うように、もう大丈夫かもしれないな」
そう言いながらも、その表情には完全には消えない警戒が残っていた。
いつ、どんな拍子にフラッシュバックが起きるかわからない。
しかも厄介なのは、本人がその兆候を認識していないことだった。
やがて、「エンデヴァー」は土星へ本格的な接近を開始する。
肉眼でも、土星の環がはっきりと見える距離になっていた。
最初は細い線にしか見えなかった光の帯が、日を追うごとに幅を持ち始め、今では巨大な構造物のように視界へ横たわっている。
船長とメリッサが、土星大気ブレーキのオペレーションを担当することになった。
理沙は船長と交代しながら、コクピットのコンソールで「長征」の動向を確認していた。
すでに「長征」は大気ブレーキを終え、タイタンへ向かう軌道へ投入されている。
一歩先を行かれている。
その事実が、数字以上の重みを持って胸に残る。
「エンデヴァー」は船体を180度反転させ、減速噴射を開始した。
およそ1日に及ぶ減速運転。推進システムは安定して稼働を続け、予定された速度まで徐々に落としていく。
そして減速噴射が終了すると、土星はもう目前まで迫っていた。
巨大だった。
窓の外を埋め尽くすように広がる黄褐色の雲海。
その上空を、信じられないほど巨大な環が横切っている。距離感がうまくつかめない。
ただ、圧倒的な質量だけが感覚として伝わってくる。
しばしの静寂。
「非常警戒モードに入ります」
メリッサの落ち着いた声が、コクピットに響いた。
直後、船内照明が切り替わり、柔らかな白色光は消え、非常灯の赤い光だけが浮かび上がる。
コクピットの空気が、一瞬で張り詰めた。
理沙は、船長とメリッサの後方席に座り、2人の操作を見守る。
コンソールに映る数値。
システムの淡々とした音声。
土星へ向かっていく船。
そして、目の前にいるメリッサの背中。
理沙は、胸の奥で静かに願った。
――どうか。
――何事も、ありませんように。
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