土星大気ブレーキは、特に大きな問題もなく終了した。
木星での大気ブレーキほどの猛烈な負荷ではなかったものの、「エンデヴァー」の船体は再び炎に包まれ、
後部の巨大なブレーキシールドは土星上層大気との摩擦に耐え続けた。
船体構造のきしむ音も、木星の時と比べれば穏やかで、減速Gも比較的ゆるやかだった。
「すべて異常なし」
わずかな間をおいて、メリッサがそう宣言する。
続いて、非常警戒モード解除のアナウンス。
赤く染まっていた船内照明がゆっくりと通常モードへ戻り、張り詰めていた空気が、少しずつほどけていく。
つい先ほどまで船全体を包んでいた緊張が、静かに遠ざかっていくのがわかった。
理沙はシートベルトを外し、軽く肩を回す。
「これから制御室に行ってきます」
振り返りながらそう言うと、船長が短く頷いた。メリッサもまた、小さく笑みを返す。
コクピットを出る直前、理沙はもう一度だけ2人の方を見た。
船長とメリッサは、ようやくひと仕事終えたという表情をしていた。
少なくとも、理沙にはそう見えた。
コクピットを出ると、中央通路は静かだった。
減速中に響いていた機械音もすでに収まり、聞こえるのは環境制御システムの低い駆動音だけである。
理沙はゆっくりと居住区画の方へ歩き始めた。
通路の途中にある展望窓の前で足を止める。
放射線と高熱対策のため保護シールドが閉じられているが、今はすでに大気ブレーキも終わっている。
壁際のスイッチに手を触れながら、理沙は通信を入れた。
「保護シールドを開けます」
数秒後、耳の中のイヤホンから船長の声が返ってくる。
「OK、開けてくれ」
ロック解除音。
続いて、重い機械音を立てながらシールドがゆっくりと左右へ開き始める。
わずかに開いた隙間から、外の光が差し込む。
さらに開く。
徐々に、窓の外の光景が姿を現していく。
その瞬間、理沙は思わず息をのんだ。
長い光の帯。
いや、帯というより、巨大な光のアーチだった。
それが窓の外いっぱいに広がっている。
「エンデヴァー」は、土星の赤道上空、雲海のさらに上を飛行している。その遥か上空を、土星の環が圧倒的な存在感で横切っていた。
差し渡し数十万キロメートル。
頭では理解している数字のはずなのに、実際に目の前へ現れると、感覚が追いつかない。
巨大すぎる。
遠近感が狂う。
空に浮かぶ自然物というより、何か人工的な超巨大構造物を見上げているようだった。
視界いっぱいに広がるその光景を、理沙は理解ではなく感覚だけで受け止めていた。
そして、自然と、あの曲のフレーズが脳裏によみがえる。
<羽ばたいて 高く高く>
<心の果てを越えてゆけるよ>
<あふれる願いが 空を染める>
<もう止まらない この鼓動は>
<世界を抱きしめるために生まれた>
<光になれ 今ここから>
マリア・エレーナは、この光景をイメージしてあの曲を書いたのだろうか。
そんな事を、ふと思う。
『Next Frontier』は時々船内でも流れていた。しかし、今この瞬間に改めて聴きたくなった。
理沙はイヤホンを操作し、曲を再生する。
静かなイントロ。
歌声。
そのまま窓の外を見つめながら、理沙は想像した。
もし今、自分が真空中へ放り出されたなら。
身体は宇宙空間に静かに漂い、眼下には土星の雲海。頭上には、視界を埋め尽くす巨大な環。
音はない。
温度もない。
重力感覚もない。
ただ、無限に近い静寂だけが広がっている。
理沙は、無意識に環の方へ手を伸ばしたくなった。
もちろん、届くはずもない。
それでも、触れてみたくなる。
「理沙」
突然、イヤホンから控えめな声が聞こえた。
メリッサだった。
「ご鑑賞中に、すまないわね」
理沙は小さく息を吐き、音楽を止める。
そして、展望窓の横に設置された壁面カメラへ視線を向け、軽く姿勢を正した。
「そろそろ仕事に戻ってください」
その口調はいつものように穏やかだった。
理沙は小さく笑う。
「了解」
そしてカメラに向かって軽く敬礼すると、再び中央通路を歩き始めた。
静かな余韻を胸の奥へ残したまま、制御室へと向かう。
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