2.軍退役後の理沙の日々
店のドアが静かに開いた。
理沙は、グラスを拭いていた手を止めて入口の方へ視線を向ける。
夕方の西日が、開いたドアから細長く店の床へ差し込んでいた。
その光の中を、キャスター付きのバッグを引いた男がゆっくりと入ってくる。
「あら」
理沙は小さく声を上げた。
男はバッグの取っ手から手を離し、少し疲れたような笑顔を見せる。
「久しぶり」
理沙はカウンターの内側から出ると、その男の前まで歩み寄った。
黒いエプロン姿のまま背筋を伸ばし、軽く敬礼する。
「お久しぶりです」
それを見て、男――ヴィクター・アークライト元大佐は照れくさそうに笑った。
「私も先月に退役したよ」
理沙は目を丸くしたあと、小さく笑った。
「そうでしたか」
ヴィクターは店の中をゆっくり見渡す。
木更津の海沿いにある、小さな飲み屋だった。
木目を基調にした静かな内装。
カウンター席が数席と、奥に小さなテーブル席が二つ。ふらりと立ち寄る程度の、小ぢんまりした店である。
ヴィクターはカウンター席に腰を下ろした。
理沙は再びカウンターの中に戻り、冷えたグラスを取り出す。
氷を入れ、炭酸水を注ぎながら彼女は言った。
「長旅、お疲れさまでした」
「地球圏内の移動だけでも、最近は妙に疲れる」
ヴィクターは肩を回しながら苦笑した。
待っている間、彼は店の中を眺め続けていた。
「もらった写真で見た通りの、いい店だね」
その言葉に、理沙は嬉しそうに笑う。
しかしヴィクターは、ふと天井を指差した。
「ただ、落ち着いた居酒屋に、この壁紙は似合わないと思う」
理沙は思わず吹き出した。
天井いっぱいに広がっているのは、巨大な土星の環の写真だった。
「エンデヴァー」の航海中、土星赤道上空を通過した際に撮影されたもの。中央通路の展望窓越しに見えた、あの光景。
環が視界いっぱいに弧を描き、氷の粒子が白い光の筋になって広がっている。
「結構気に入ってるんですけど」
「店の雰囲気が宇宙居酒屋になってるぞ」
「今さらですよ」
理沙は飲み物を差し出した。
ヴィクターはグラスを受け取り、一口飲んでから静かに息をついた。
その後、会話は自然と昔話へ移っていった。
NASA時代の話。
FSDD創設初期の混乱。
理沙が軍から出向し、「エンデヴァー」計画へ参加した頃のこと。
気づけば、理沙は長い時間を振り返っていた。
軍からの出向期間だけでも四十年近い。
木星、土星、外惑星開発、木星の資源開発、資源輸送のためのロジスティック開発。
理沙の人生の大半は、宇宙開発と共にあった。
ヴィクターと理沙が一緒に仕事をした期間は、実際には最近の四年ほどでしかない。
しかしヴィクターは、FSDDでの理沙の働きを高く評価し、自分のタスクチームへと引き入れた。
思い出話はさらに続く。
「エンデヴァー」第一次航海。
中国崩壊後の騒乱。
優秀な中国人技術者たちをFSDDへ引き込むためのスカウト活動。
木星資源開発プロジェクト。
事故。批判。議会対応。世論。
莫大な赤字。
そして、最初のヘリウム3出荷。
木星プラント本格稼働。
人類史を変えたと呼ばれる巨大プロジェクトの裏側を、理沙は淡々と語ってゆく。
ヴィクターは時折うなずきながら、それを静かに聞いていた。
やがて、彼が不意に話題を変える。
「ところで」
理沙はグラスを拭く手を止めた。
「また断ったようだね。大統領報道官の仕事」
理沙は少しだけ苦笑した。
「ええ、丁重にお断りしました」
2080年、ルーニー大統領第一期政権。
そして2084年、第二期政権。
どちらの時も、理沙には政権側から正式な打診が来ていた。
ヴィクターは少し意地悪そうな顔になる。
「メリッサ夫人の推しがあったのに?」
その名前が出た瞬間、理沙は少しだけ視線をそらした。
「……やめてくださいよ」
ほんの少しだけ照れたような表情。
しかしそのあと、彼女はきっぱりと言った。
「あたしは、政治の仕事に向いていないと思います」
店の中に静かな空気が流れる。
どちらも次の言葉がすぐには出てこなかった。
外を見ると、東京湾の向こうに夕焼けが広がっていた。西日が店内に差し込み、土星の環の壁紙を赤く染めている。
その静けさの理由を、お互いなんとなく理解していた。
理沙が軍を退役するきっかけになった、あの出来事。
口には出さない。
しかし忘れてもいない。
沈黙を破ったのは、理沙の方だった。
「その後どうなりました? 例の発展型プランについては」
窓の外をぼんやり眺めていたヴィクターが我に返る。
「ああ、あれね」
少し考えるように間を置いたあと、彼は笑った。
「800メートルの物も却下されたのに、1800メートルとは何事かと」
理沙は吹き出す。
ヴィクターも肩をすくめた。
「まぁ、あっさり一蹴されて終わり」
それを聞いて、理沙も声を上げて笑った。
気づけば、外はすっかり暗くなっていた。
店内にはヴィクター以外の客はいない。
静かな夜だった。
「これから先、どうするんですか?」
理沙はカウンター越しに尋ねる。
ヴィクターはグラスを見つめたまま答えた。
「ケンタッキーに両親が住んでいて、木工所を経営している」
まるで前から決めていた事のような口調だった。
「故郷に戻って、家具職人にでもなろうかと」
数秒の沈黙。
しかし理沙は、とうとう耐えきれなくなって笑い出した。
「嘘ですよね」
ヴィクターもつられて笑う。
そして今度は、彼の方から尋ね返した。
「君は?」
理沙は少しだけ考えるような顔をしたあと、迷いのない表情で言った。
「あたしは……」
カウンターの中を見回す。
静かな店。
磨かれたグラス。
窓の外の港の灯り。
そして頭上いっぱいに広がる、土星の環。
「この店で、お客さんの相手をしながら静かに暮らします」
少しの間を置いて、今度はヴィクターが笑い出した。
そして理沙もまた、彼につられて笑った。